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創作短編(20): 初代総理大臣伊藤博文 -2/9 [稲門機械屋倶楽部]

                          2011-05 WME36 梅邑貫

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 明治天皇は、維新後に江戸から東京と名を替えた新しい首都へ奠都され、これも東京城と名を替えたかつての江戸城を皇居としておられたが、明治六年(1873)五月の大火で僅かに残っていた西の丸も消失して、赤坂御所を仮の御所としていた。

 このため、政府機構もその赤坂仮御所に共に在り、伊藤博文も井上馨も明治天皇とは極めて距離的に近い場所で執務しており、伊藤博文が欧州の憲法調査を命ぜられたことも直ぐに井上馨の耳に届いた。

「それで、俊輔、いつ発つのじゃ」

「うん、それほどのんびりとはしておられぬのだ。三月十四日、横浜を出港するアメリカ船ゲーリック号に乗る」

「何とも忙しいのう」

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 伊藤博文が明治天皇から勅命を受けた三日後の三月六日、伊藤博文の壮行会が東京芝の紅葉館で急ぎ行われたが、これは井上馨の一声によって催されたもので、伊藤博文と較べて地位には恬淡としていた井上馨の伊藤博文を援ける行動の現れでもあった。

 尚、この芝の紅葉館は今で言う会員制の高級料亭で、仲居達が紅葉をあしらった艶やかな着物姿で好評を博し、その跡地が現在の東京タワーとなっている。

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 明治十五年(1882年)三月十四日、伊藤博文は予定通りに横浜港から欧州へ向けて旅立ったが、これは初の欧州行きではない。

 文久三年(1863年)五月十二日、伊藤俊輔は井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉と共に、長州五傑の一人として、横浜港から上海へ向かい、さらに英国船に乗り換えて英国を目指した。これは藩主毛利敬親(タカチカ、又は、ヨシチカ)が幕府の了解を得ずに命じた海外視察であり、伊藤俊輔と井上聞多は翌年の元治元年(1864年)三月まで英国に滞在して欧州の、特に大英帝国の現実を見聞した。これに先立つ文久三年三月二十日、伊藤俊輔は長州藩の士分に取り立てられたが、藩主毛利敬親の人を見る目が確かであったことを物語る。


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ぼくあずさ

鹿児島に出張した時、狭い土地から明治の偉人が幾人
も出ているのを知り、小学校の級長クラスの頭脳をもつ
少年であれば、時代によっては運とチャンスがあれば、
歴史に名を残せるのだと思いました。
by ぼくあずさ (2011-06-04 15:10) 

hanamura

松下村塾すごいなぁ~!っと、1.2年 山口県民です。
by hanamura (2011-06-04 22:13) 

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