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創作短編(20): 初代総理大臣伊藤博文 -1/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                        2011-05 WME36 梅邑貫

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時       :明治十八年(1885年)十二月

場所    :東京

登場人物:伊藤博文、井上馨、山縣有朋、その他

御礼    :伊藤博文の私邸につき、藤澤篤尚氏の助言を頂きました。

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 明治十四年(1881年)十月十二日、明治天皇は国会開設の詔勅を発せられ、十年後に議会を開設すると宣せられた。

 これに先立ち、伊藤博文は明治十一年(1878年)五月十五日に既に内務卿に就任していたが、その前日の五月十四日に前任者であった内務卿大久保利通が紀尾井坂で暗殺され、その翌日に伊藤博文は内務卿に就任した。

国会開設の詔を発せられた翌年、明治十五年(1882年)三月三日、明治天皇は伊藤博文を呼び、憲法調査を命ずる勅書を手渡された。

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 このとき、明治天皇は嘉永五年(1852)九月二十二日御生誕の二十六歳であるが、伊藤博文は天保十二年(1841年)四月十二日に長門の周防能毛で生まれて、このとき三十七歳であった。天皇は臣下を呼ぶに際して、「君」と「さん」の敬称を付すことはなく、常に呼び捨てであったから、憲法調査を内務卿伊藤博文に命ずるときに、何と呼んだのであろうか。おそらく、「伊藤、速やかに欧州へ参り、諸国の憲法を調べよ」とでも言われたであろうと想像される。

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 伊藤博文が天皇の勅書を手にして執務室へ戻るのを待つようにして外務卿の井上馨が入って来た。

「俊輔、お上もよう人を観ておるのう」

「聞多、声が高い」

 伊藤博文と井上馨は同じ長州の出身で、井上馨の方が伊藤博文より二歳の年上であるが、互いに若い頃の通称で呼び合う仲であって、伊藤博文を俊輔と呼び、井上馨を聞多と呼んだ。

「お上がどうされたのじゃ」

「俊輔を憲法調査のために欧州へ行かせる。これぞ、お上の人を観る碧眼であろうが。違うか」


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