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創作短編(19):県犬養三千代 -7/8 [稲門機械屋倶楽部]

                           2011-05 WME36 梅邑貫

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 文武元年(697年)の或る日、夫の藤原不比等が満面に笑みを迸らせて戻って来たのを三千代は見つけた。

「如何なされました。大層善きことのようで」

「うん。文武様が宮子を」と言って、不比等は三千代の目を優しく見詰めた。

 三千代と不比等にはそれ以上の言葉を必要としなかった。宮子は、三千代から見れば、先妻が産んだ娘であるが、懐の深く大器の三千代には我が腹を痛めた娘同然であった。その藤原宮子が文武天皇に嫁すことになり、その文武天皇は三千代が乳母として育てた珂瑠皇子であった。

藤原不比等は天皇の臣下であって皇族ではない。その臣下から初めて皇族を輩出し、しかも、それが「光明皇后」だった。三千代と不比等の夫婦にとって、これほど嬉しいことはなかった。

 しかも、慶事はなおも続いた。文武天皇と宮子の間には、大宝元年(701年)に男児が誕生し、首皇子(オビトのミコ)と命名された。この首皇子は神亀元年(724年)に第四十五代聖武天皇として即位するが、その皇后となったのが藤原光明子、即ち、三千代が不比等との間に産んだ娘であった。首皇子の母は藤原宮子であるから、宮子と光明子は異母姉妹の関係にある。

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 この創作短編の著者梅邑貫は技術者であって、日本古代史を専門とはしていないので、推測の域を出ないが、日本の歴史で「皇后」が出現するのは藤原宮子の「光明皇后」が最初であろうと思う。

 持統天皇の夫であった天武天皇が律令を定めると公布したが、天皇の崩御で果たせず、その意志を継いだ持統天皇と草壁皇子が律令制定を行い、持統三年(689年)に飛鳥浄御原令として発布された。しかし、律令としては未だ完成の域には達しておらず、本格的な律令は大宝元年(701年)に文武天皇によって公布された「大宝律令」が我が国初の律令となった。

 実は、この律令が制定されるまでは、天皇の妻の地位は曖昧で、未だ皇后の名称はなかった。大宝律令によって、初めて「皇后」が誕生し、その最初が藤原光明子の「光明皇后」である。


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hanamura

梅邑貫さん 私のような浅学輩は恐縮至極!私もAT(アビオニクス・テクニシャン)だったハズが、管理職(人事)だか予算執行担当だか…好きな仕事以外の残業は、本当に苦痛なので…しません。(したくない。)
ともかく、創作短編シリーズは大好きです!
by hanamura (2011-06-02 20:03) 

梅邑貫

hanamura さんへ
愉快なコメントを有難うございます。
日本の歴史は私達の宝です。その膨大な宝の中から、清々しい男と女、卑しくない男と女を見つけるべく努力しております。
御愛読に感謝致します。
by 梅邑貫 (2011-06-03 06:52) 

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