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創作短編(17) 大久保利通暗殺と大隈重信 -5/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                        2011-04 MWE36 梅邑貫

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明治十一年五月十四日の朝八時頃、明治天皇の御座所である赤坂仮御所に向って、大久保利通は馬車に乗って裏霞ヶ関の私邸を出ました。

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明治天皇は、明治元年(1868年)八月二十七日、世の混乱で遅れていた即位の礼を執り行われ、次いで九月二十日に京都を発たれて十月十三日に江戸城へ入られ、即日、東京城と改称されました。これを明治天皇の京都から東京への奠都(テント)と言います。

江戸城は本来は天守閣を持つ本丸、二の丸、西の丸が完備した豪壮な城郭でありましたが、度々の火災に遭遇して、徳川幕府が明治政府へ明け渡した頃の江戸城には西の丸しかありませんでした。明治天皇が皇居として入られた西の丸も明治六年(1873年)五月五日の火災で焼失し、明治天皇は紀州徳川家の江戸中屋敷であった赤坂離宮へ移られて仮御所とされました。

裏霞ヶ関は今では見当たらない場所ですが、東京中心部の桜田通りに面する財務省と外務省の間を議事堂へ向う緩やかな潮見坂を上り、首都高速道路の霞ヶ関料金所に突き当たる辺りです。この大久保利通の私邸は、嘉永三年(1850年)版の江戸切り絵図によれば、福島二本松藩の藩主丹羽左京太夫の下屋敷の跡でした。

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内務卿大久保利通が暗殺された明治十一年当時の東京中心部の道路がどのように整備されていたかがよく判りませんが、溜池から赤坂見附へ通ずる赤坂通りは未だなかったようで、大久保利通が乗る馬車は、裏霞ヶ関の私邸を出てから、現代の地図に投影すると、議事堂の裏側に相当する道を通って、国会図書館が見える角で左折し、その後がよく判りませんが、赤坂御門、今の赤坂見附の近くへ出たようです。その次に現在の弁慶橋を渡った道に入りました。現在ならホテル・ニューオータニを左に見て、右に赤坂プリンスホテルと清水谷公園を見る道です。これを直進して突き当りで左に曲がると紀尾井坂です。紀尾井坂の先の喰違橋を渡ると赤坂仮御所ですが、この喰違橋は、今は名が残っていませんが、ホテル・ニューオータニと上智大学の境として細い道があります。


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梅邑貫

xsm-xsl さん、erucat さん、rtfk さん、シラネアオイさん、
hanamura さん、くらいふ さん、アルマさん。
常々nice を有難うございます。この「創作短編」もまもなくクライマックスです。最後までお読み下されば幸いです。
by 梅邑貫 (2011-05-11 18:18) 

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