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創作短編(17) 大久保利通暗殺と大隈重信 -1/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                       2011-04 MWE36 梅邑貫

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時       :明治十一年(1878年)五月十四日

場所     :東京・紀尾井坂と赤坂仮御所

登場人物 :内務卿大久保利通、その他

参考文献 :楠木誠一郎著「日本史・謎の殺人事件」他

尚、江戸学の大家で旧友の藤澤篤尚氏に諸々教えていただきました。

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 明治十一年五月十四日の朝、内務卿大久保利通は天皇の御座所である赤坂仮御所へ向かっているとき、赤坂仮御所を目前にした紀尾井坂で旧加賀藩士達によって暗殺されました。

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  それに先立つ一ヶ月ほど前、加賀百万石、今は石川県となった金沢城下の足軽屋敷に三十名ほどの屈強な若者達が目立たぬように入って無言で車座になり、その中心に座を占めた元加賀藩士、明治維新の後は石川県士族と呼ばれる島田一郎は、懐から書状を出すと、近くの者に手渡しながら静かに言いました。

「順に読んでくれ。陸義猶(クガ・ヨシナオ)殿に認めてもろうた斬奸状である」

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 島田一郎は嘉永元年(1848年)の生まれであり、今は三十歳。加賀藩の足軽の子として生まれ、元治元年(1864年)、十七歳で長州征伐軍に加わり、さらに明治元年(1868年)、二十一歳で北越戦争にも参加して、長岡藩が遺棄した糧食を確保した功で御歩並(オカチナミ)に昇格していました。

 その後、自らフランス軍の歩兵戦闘を学び、又、西郷隆盛に心酔して征韓論の実現と征韓軍へ加わるべく動きましたが、これは西郷隆盛の下野で実現せずに終わりました。

 島田一郎は明治の陸軍で中尉に任官しているのですが、わざわざ鹿児島まで行って西郷隆盛や桐野利秋とも直接会い、ますます西郷隆盛に心酔していました。

 加えて、徳川幕府時代の雄藩であった加賀藩が、明治維新では時代に乗り遅れ、その焦りも島田一郎達の心理に影響を及ぼしていたことは否定できません。


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