SSブログ

松陰先生言行録(8) [明治維新胎動の地、萩]

                                 By N.Hori

.

 正月14日、ペリー艦隊は7隻で、再び江戸湾に姿を現した。松陰も駆け回った。彼の主張は、断固、屈するなかれ、の攘夷論であった。そのくせ、鎖国主義者ではなく、強要されて屈服するのは恥ずべき敗北であり、ここで屈服すれば、この民族は自立の生気を失うだろうという強烈な民族的自尊心を盛り上げた彼の理論は、やがてその後の志士たちの思想に重大な影響を与えた。

.

 ペリーが拒絶すれば、戦になるであろう。「その時は、このようにすれば勝てる」と「海戦策」を書き、浪人の身ながら藩主にもたてまつった。要は、「米艦隊との戦いについては、策戦を2段階に分ける。まず、夜、小舟による決死強襲する海戦をやって、次いで複雑な地形を利用した内陸戦で迎えて殲滅する、1年後に再び来襲するだろうから、洋式兵器を整え、訓練して待つ」というもので、具体的にくわしく書いた。

 松陰以後の幕末の攘夷志士は、松陰のこの理論を信じて、激しい攘夷活動を続けたが、この理論が現実には空論にすぎないことが実証されたのは、長州藩がやった下関での4か国との戦争だった。

 これを機に、時勢は開国含みの回天運動に向かった。

.

 松陰は、幕府が屈服して、開港許可を与えることを予想して、次の行動目標に「密航」を考えて、弟子の金子に、友人を集めるように指示した。

さすがに、金子は「この秘謀を仲間に知らせるのでございますか」と驚いた。松陰は、「おそらく9割9分失敗して刑死するであろう、この快挙を断行するにあたって、その死の意味も知られずに終わるということが、どうも気に入らない」。

このあたりが、この天性、謙虚な若者のなかで、常に矛盾としてうずいている。彼は、現実の世の中での栄誉や立身を望まなかったが、死後の功名を欲した。金子が準備した会場には、長州藩、熊本藩から7人の仲間が集まった。松陰は、「自分は金子とともに米艦に投じようと思うが、諸兄はどう思われる」と言った。しばらく声が無かったが、宮部が大声で反対した。やがて、松陰の心を既に聞いていた長州の3人は賛成した。熊本も宮部を除く3人が賛成した。その一人が「われわれとしては、これを励まし、行を壮んにする以外にない」が言ったのを聞き、松陰は「丈夫見る所あり、決意して之を為す、富岳崩るると雖も、刀水かると雖も、亦誰か之を移し易へんや」の詩を作り、3月5日出立した。

.

米艦は横浜にいる。横浜へ行ったら象山がいた。象山の目的は、黒船に乗り移ることではなく、黒船に接近し、装備その他を十分に見ておきたい、ということだった。象山は漁師に化けて漁船で近づこうして、松陰にも「あす未明に決行する。君らも漁師になりなさい」と言ってくれた。松陰は大いに喜んだが、一旦、承知した漁師たちが断ってきた。象山はもう一つ工夫があると言って、別の船頭を紹介してくれたが、結局、この船頭も逃げた。その他の手立ても試みたが、失敗した。

.

既に、横浜に入って12日経ったが、目途が立たない。松陰は常にそうであるように失望せず、「はかりごといよいよ違って、志いよいよ堅し」と言った。翌日、ペリー艦隊は、一旦、江戸が見えるところまで進んで、やがて、下田に去った。

松陰もそれにつれて動き、下田に向かった。米人は結んだばかりの神奈川条約によって、自由に下田の町を歩いていた。かれらをつかまえ、アメリカの司令官に渡海願の手紙を渡した。この手紙は漢文で書いたものだが、ペリーの旗艦には広東人が乗っており、英訳してペリーに伝わることを期待した。期待通り、それをペリーは読んでいた。

松陰たちは小舟を操るのに苦労して,旗艦に着いたが、ペリーは連れて帰ることを拒絶し、海岸に送り返した。その理由は、米国はやっと通商条約を日本と結ぶことができた。日本側の条件は日本の法律を守ってくれということで、ここで日本人の逃亡を助ければ、日本では死刑になる重大な国法を破ることになる。この二人は、幕府が米国が日本の法を守るかどうか、試しているのかもしれない。

.

 正月14日、ペリー艦隊は7隻で、再び江戸湾に姿を現した。松陰も駆け回った。彼の主張は、断固、屈するなかれ、の攘夷論であった。そのくせ、鎖国主義者ではなく、強要されて屈服するのは恥ずべき敗北であり、ここで屈服すれば、この民族は自立の生気を失うだろうという強烈な民族的自尊心を盛り上げた彼の理論は、やがてその後の志士たちの思想に重大な影響を与えた。

.

 ペリーが拒絶すれば、戦になるであろう。「その時は、このようにすれば勝てる」と「海戦策」を書き、浪人の身ながら藩主にもたてまつった。要は、「米艦隊との戦いについては、策戦を2段階に分ける。まず、夜、小舟による決死強襲する海戦をやって、次いで複雑な地形を利用した内陸戦で迎えて殲滅する、1年後に再び来襲するだろうから、洋式兵器を整え、訓練して待つ」というもので、具体的にくわしく書いた。

 松陰以後の幕末の攘夷志士は、松陰のこの理論を信じて、激しい攘夷活動を続けたが、この理論が現実には空論にすぎないことが実証されたのは、長州藩がやった下関での4か国との戦争だった。

 これを機に、時勢は開国含みの回天運動に向かった。

.

 松陰は、幕府が屈服して、開港許可を与えることを予想して、次の行動目標に「密航」を考えて、弟子の金子に、友人を集めるように指示した。

さすがに、金子は「この秘謀を仲間に知らせるのでございますか」と驚いた。松陰は、「おそらく9割9分失敗して刑死するであろう、この快挙を断行するにあたって、その死の意味も知られずに終わるということが、どうも気に入らない」。

このあたりが、この天性、謙虚な若者のなかで、常に矛盾としてうずいている。彼は、現実の世の中での栄誉や立身を望まなかったが、死後の功名を欲した。金子が準備した会場には、長州藩、熊本藩から7人の仲間が集まった。松陰は、「自分は金子とともに米艦に投じようと思うが、諸兄はどう思われる」と言った。しばらく声が無かったが、宮部が大声で反対した。やがて、松陰の心を既に聞いていた長州の3人は賛成した。熊本も宮部を除く3人が賛成した。その一人が「われわれとしては、これを励まし、行を壮んにする以外にない」が言ったのを聞き、松陰は「丈夫見る所あり、決意して之を為す、富岳崩るると雖も、刀水かると雖も、亦誰か之を移し易へんや」の詩を作り、3月5日出立した。

.

米艦は横浜にいる。横浜へ行ったら象山がいた。象山の目的は、黒船に乗り移ることではなく、黒船に接近し、装備その他を十分に見ておきたい、ということだった。象山は漁師に化けて漁船で近づこうして、松陰にも「あす未明に決行する。君らも漁師になりなさい」と言ってくれた。松陰は大いに喜んだが、一旦、承知した漁師たちが断ってきた。象山はもう一つ工夫があると言って、別の船頭を紹介してくれたが、結局、この船頭も逃げた。その他の手立ても試みたが、失敗した。

.

既に、横浜に入って12日経ったが、目途が立たない。松陰は常にそうであるように失望せず、「はかりごといよいよ違って、志いよいよ堅し」と言った。翌日、ペリー艦隊は、一旦、江戸が見えるところまで進んで、やがて、下田に去った。

松陰もそれにつれて動き、下田に向かった。米人は結んだばかりの神奈川条約によって、自由に下田の町を歩いていた。かれらをつかまえ、アメリカの司令官に渡海願の手紙を渡した。この手紙は漢文で書いたものだが、ペリーの旗艦には広東人が乗っており、英訳してペリーに伝わることを期待した。期待通り、それをペリーは読んでいた。

松陰たちは小舟を操るのに苦労して,旗艦に着いたが、ペリーは連れて帰ることを拒絶し、海岸に送り返した。その理由は、米国はやっと通商条約を日本と結ぶことができた。日本側の条件は日本の法律を守ってくれということで、ここで日本人の逃亡を助ければ、日本では死刑になる重大な国法を破ることになる。この二人は、幕府が米国が日本の法を守るかどうか、試しているのかもしれない。


nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。