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創作短編(15):火附盗賊改 -7/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                         2011-03 WME36 梅邑貫

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  寛政元年(1788年)、長谷川平蔵は老中松平定信に犯罪人を更正させる授産施設の設置を提議して認められた。それまでは罪を犯した者を佐渡の金山へ送り込んで労役に就けていたが、長谷川平蔵は重労働のみでは更正の効果が薄いと考えたのだ

 松平定信から特別に資金を出してもらって、寛政二年(1970年)、正式には加役人足寄場(ニンソクヨセバ)が整い、世間では石川島人足寄場と呼ばれた。現在は東京都中央区佃二丁目となっている石川島は大川(隅田川)河口の干潟であったが、相州上矢部の四千石の旗本で船手頭であった石川八左衛門が埋め立てた場所であり、長谷川平蔵にその場所を渡した後、永田馬場(現在の東京都千代田区永田町)へ移った。

 石川島人足寄場には無宿人や重罪ではない者が百余名から多いときで五百余名が主として大工仕事の技術を教えられ、給金が払われていた。しかし、この給金は本人には渡されずに貯められ、三年後の出所の折に生活資金として手渡された。

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 長谷川平蔵は老中首座松平定信に改めて拝謁した。その時期は多数の資料や記録を渉猟しても定かにならず、著者梅邑貫は寛永四年か五年であろうと推察する。

「御老中、石川島の人足寄場のことにござりまするが」

「うん、上手く運んでおるようじゃな。上様も、それはそれは大変お喜びでござる」

「はっ、有難きお言葉でござりまする。実は、勘定の方がきつうござりまして」

「そうであろう。諸事、倹約に努められよ」

「はっ。しかしながら、御下賜金を少々増やしていただきたく」

「いや、それはならぬ。幕府は他にも多々入用でな」

 石川島人足寄場を運営する予算の増額を断られた長谷川平蔵は本所の役宅へ戻ると、幕府から与えられた少なからざる金幣を懐に入れて蔵前に軒を並べる銭相場師の一人を訪ねた。


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