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創作短編(13): 代官はパンの祖 -7/7 [稲門機械屋倶楽部]

               2011-03-05 MWE36 梅邑貫

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 天保十三年(1842)四月十二日、長崎のパン職人作太郎の作ったパンが伊豆韮山の代官屋敷で出来上がった。

 饅頭のように丸いが、饅頭よりも二廻りは大きく、この丸いパンを一つ食べれば空腹感は消せると江川坦庵は考え、作太郎から勧められて最初に試食した。

「作太郎殿、このパン、意外に硬いのう」

「はい、坦庵様。齧(カジ)り付かずに、手で三つか四つに解(ホグ)しましてから召し上がって下さいませ。それに、その硬さなれば、十日ほどは長持ち致します」

 作太郎のパンを試食した江川坦庵は大きく頷き、「さすがは長崎のパン職人作太郎だけのことはある」と褒めた。

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 韮山は平成17年(2005年)に隣接する大仁町、伊豆長岡町と共に今は静岡県伊豆の国市となりましたが、毎年412日は「パンの日」として祝い、市内のパン店の中には江川坦庵が作太郎に作らせたパンと同じパンを作って販売しています。

 江川太郎左衛門英龍の江戸の代官屋敷は安政三年(1856年)に芝の鉄砲調練場の北側へ移りますが、徳川幕府の終焉と共に、手代柏木忠俊の計らいで、福沢諭吉の慶應義塾が三田に落ち着くまでの塾舎となり、又、江戸の代官所の正門は現在の静岡県立韮山高校の正門として移設されました。よく知られている韮山の反射炉も江川坦庵が建てたものですが、江川太郎左衛門英龍は安政二年(1855年)一月に病没しましたが、五十五歳(満53歳)の惜しまれる早世でありました。

 その後、手代であった柏木忠俊が江川家の存続に尽力しております。手代と言っても、代官の秘書役であり、弘化三年(1846年)には江川坦庵の助手として伊豆七島の巡視を行い、又、自ら願い出て長崎で近代兵装の勉学にも努めています。さらに、江川坦庵の命で江戸の代官屋敷でパンを試作しました。

 明治維新後、柏木忠俊は明治政府への出仕を断り、福沢諭吉や旧幕臣との交友を深め、足柄県令を勤めると共に教育に意を注ぎ、現在の韮山高校の基礎を築いております。 

                                     (了)


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