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創作短編(11): 斉藤福は頑張った -7/8 [稲門機械屋倶楽部]

                  2011-02-10 WME36 梅邑 貫

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 その翌年、元和二年(1616年)四月十七日、徳川家康は没した。一月に鷹狩に出掛けたときに倒れたとか、鯛の天ぷらによる食中毒とか伝えられるが、鯛の天ぷらを食べたのが一月二十一日なので、中毒にしては日数が経ち過ぎていると思われる。このとき、関係する人達の年齢は次の通りである

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  徳川家康     七十四歳

  二代将軍秀忠 三十八歳

  秀忠正室於江 四十四歳

  斉藤福       三十八歳

  竹千代              十二歳

  国松                十歳

  松平信綱    二十一歳

  稲葉正勝      十九歳

  柳生宗矩     四十五歳

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 竹千代は、家康の死で遅れていた元服を元和六年(1620年)に終え、このときに家光と改名し、元和九年(1623年)、父親の二代将軍秀忠と共に上洛し、伏見城で将軍宣下を受けて徳川幕府三代将軍となった。このとき家光は二十歳であった

 斉藤福は、寛永六年(1629年)、疱瘡で苦しむ将軍家光の快癒祈願のために伊勢神宮へ詣でたが、そのまま京へ向かい、十月十日、後水尾天皇と中宮和子に拝謁し、従三位春日局の官位を授けられた。

 寛永三年(1626年)、二代将軍秀忠の正室於江が没したが、その後、大奥取締となった春日局は、既に竹千代の乳母としての役目は終えているが、将軍家光の乳母であった経歴は絶対的な権威を発揮し、老中に勝る発言力を有した。

 小姓の信綱は松平伊豆守信綱、或いは「知恵伊豆」として知られるに至り、寛永十年(1633年)、家光により老中に任ぜられ、六万石の川越藩藩主にもなった。福の息子の稲葉正勝は元和九年(1623年)に老中となり、相模小田原藩の藩主になった。


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袋田の住職

家光を養育し、江戸幕府の礎を築いたといっても過言ではないでしょう。
父親が非業の死を遂げて斎藤家もどうなることかと思いましたが、
見事に、道を開きましたね。
それにしてもこの時代に生きた人たちは実に複雑に絡みあってますね。
by 袋田の住職 (2011-02-16 09:11) 

梅邑貫

袋田の御住職へ
常々御愛読いただき、又、薀蓄に富むコメントを有難うございます。
「斉藤福は頑張った」も残すところ一回です。どうぞ最終回もお読み下さりたくお願い申し上げます。
by 梅邑貫 (2011-02-16 19:26) 

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