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創作短編(10): 町火消「いろは四十八組」 -6/7 [稲門機械屋倶楽部]

                                           2011-01-30 WME36 梅邑貫

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 徳川八代将軍吉宗は享保の改革に際して、家格が低い故に、能力がありながらも要職に就けぬ者を抜擢することに意を注ぎ、その典型例が大岡忠相であった

 もう一人の典型例は武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都あきるの市平沢)の住人であった田中丘隅(タナカ・キュウグ:1662-1729)で、荒川や多摩川の治水に起用し、川崎宿の再興を任せ、武蔵国西部三万石の管理も委ねた。

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 享保六年(1721年)、大岡忠相は書物に「奥付」を付して、著者と出版元を明らかにするよう命じているが、これは日本の出版会で今日まで続く慣例となった。尚、「奥付」は大岡忠相より前に既にあったとの説もあり、大岡忠相はそれを見て全書物に普及させたのかもしれない。

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  享保七年(1722年)、目安箱に貧窮した病人を救うための救済施設の設置が町医者小川笙船から提案され、大岡忠相はその具体策の策定を将軍吉宗から命ぜられ、それが小石川の養生所として実現した

 さらにこの頃、大岡忠相は青木昆陽と知り合って書物奉行に任命すると共に、青木昆陽が飢餓対策として試験的に栽培していた薩摩芋の増産に補助金を与えている。

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 大岡越前守忠相については、大岡政談に始まる数々の逸話や物語があるが、有能であったためにそれなりの事績を残し、後の世に講談や落語で誇張して伝えられるものが多い。

 大岡越前守忠相が初代藩主となった西大平藩は七代藩主の明治二年まで続くが、大岡忠相は江戸定府の譜代大名であったために、一度も西大平藩へ戻ることはなく、西大平藩には城はなく、陣屋だけがあった。それどころか、大岡忠相の本領は相模国高座郡大曲村(神奈川県高座郡寒川町大曲)であり、大岡忠相の墓所は神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺にある。


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hatumi30331

こういうお話を聞くと・・・歴史の上に今がある・・・・ってつくづく感じます。
by hatumi30331 (2011-02-06 08:21) 

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