明治維新政府による仏教弾圧:戊辰戦争から「天台宗中学まで」 [ぼくあずさの寺めぐり]
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私は300近い寺めぐりを通じて、明治新政府による仏教弾圧、上地令、廃仏毀釈と太平戦争終了直後のGHQによる農地解放によって、ごく少数の観光寺院を例外として、経済的に困窮していること。過疎化と地方経済の崩壊から檀家収入も減り続け、悲惨な状態にあることを知った。これは、日本人の仏教心が希薄になる要因でもある。偶々、駒込だよりに副題にあるような内容が紹介された。.
年表
1.寛文12年(1672)禅僧了翁が東叡山寛永寺内に「勧学講院」を設立、
天台宗中学のルーツ。僧侶600人の外、庶民400人の学問処。
3万冊の蔵書を持つ日本最古の公設図書館
2.慶応4年(1868)、戊辰(上野)戦争。幕府軍、彰義隊は寛永寺を拠点
とし、薩長軍は勧学講院(現在の芸大の地)を宿舎とした。黒門(表
門)を残して建物は焼失し、院生400人は四散。表門は昭和41年
(1966)以降は西武の堤康次郎の浅間山観音堂の惣門として使用
3.明治新政府による神仏分離令、廃仏毀釈、上地令
4.東叡山が占めていた上野公園一帯は政府により没収
5.明治3年(1870)、政府により天台宗総本山は日光輪王寺から比叡
山延暦寺に移る
6.4年(1871)、政府により勧学講院の土地および資金は没収
7.5年(1872)、「勧学講院」は比叡山延暦寺の直轄へ、「天台宗東部
総黌」に 改める
8.9年(1876)、「勧学講院」の学頭凌雲院の境内を1345坪にする条件
付きで返還された元の場所(2806坪)に「東部総黌」と「勧学寮(学
問所)」(272坪)を再建
9.13年(1880)、天台定則を定め、本山に「大学林」、本山と東京に「中
学林」、全国の寺院に「小学林」を置き、「天台宗東部総黌」は「天台
宗中学林」に改称、定員50人
10.18年(1885)宗制寺法の改訂、本山と東京に「天台宗大学」を置き、
「天台宗大学支林校」と改める
11.19年(1886)、学校令公布、明治27年(1894)には大学7人、支林校
37人
12.28年(1895)、「天台宗東部大中学黌」に改組、日本天台学を中心
にした教科へ
13.32年(1899)、宗教教育禁止令
14.37年(1904)「天台宗東部中学」および「天台宗東部大学」に分割
15.38年(1905)、「天台宗中学」に改名.
ぼくあずさのComment
1. 天台宗、特に東叡山が明治新政府により徹底的に弾圧され、「勧学
講院」は消滅
2. 新政府の朝令暮改に翻弄された
3. 明治18年には大学林、中学林、小学林を組織し、成績優秀者を将来
の天台座主にすることを決めた
4. 明治32年(1899)、教科は哲学史、倫理学、国語、漢文、作文、算術
、英語、歴史、地理、習字を追加5.対象4年(1925年)天台宗、真言宗、浄土宗の大正大学
を設立。
6.天台宗以前からの他の宗派および鎌倉仏教各派は程度の差は
あれ、大きな被害を受け、その傷跡が残されている
7.民主反日新政権のまき散らした毒素の解毒作業が国民の急務
禅僧了翁 波乱の生涯と功績 http://aios.city-yuzawa.jp/contents/webyuzawa.nsf/0/acc97473d0c5ada7492572db000531b9/$FILE/p04-05.pdf
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