SSブログ

創作短篇(9): 初の偽造外交文書 -2/6 [稲門機械屋倶楽部]

                                2011-01-18 梅邑 貫

.

  二年前の文久三年(1863年)三月十一日、孝明天皇は攘夷祈願のために賀茂神社へ行幸されたが、朝廷の命で徳川十四代将軍家茂が随行した

「上様、若干十七歳にして御病弱、二十六歳の一橋慶喜殿が後見役として付いておっても、孝明様は三十二歳。京と江戸、離れておればどうにかなるが、上様が京へ入られてしもうては、最早如何とも為し難いのう」と、山口駿河守は腕を組み無言で独り頷き、あの行幸は、上様に向こうて、「お前等には攘夷はできまいと、孝明様が幕府を見限ったのと同じことよ」とも考えた。

.

 孝明天皇の攘夷祈願の行幸に随行してしまったことで、四月二十日、将軍家茂と将軍後見役一橋慶喜は、五月十日に攘夷を決行するとの約束をすることになった。

 将軍家茂にしても一橋慶喜にしても、「朝廷は攘夷、攘夷と申しおるが、実際に攘夷を行うには如何にするつもりか」との疑念を拭うことができず、又、攘夷を行う実力が幕府のみならず、有力な藩にもないことを知っていた。それ故に、攘夷決行を朝廷と約束はしたが、現実に実行されることのない約束であるとも考えていた。

.

 話は逸れるが、将軍家茂は朝廷との間で攘夷決行を約束した結果、ようやく京を離れて大阪城へ戻ることができた。四月二十三日、将軍家茂は幕船の順動丸に乗って摂津の港と近辺の海を巡視したが、随伴していた勝海舟から海軍創設と、その海軍は幕臣のみならず、広く各藩の藩士も加えるべきと説かれ、翌二十四日、家茂は神戸海軍操練所の設立を決断して許可した。

.

 このとき、勝海舟は四十歳で、役は軍艦奉行並、役高は一千石であったが、摂海警衛と神戸軍艦操練所の運営を任され、軍艦奉行に昇格すると共に二千石に加増され、加えて従五位下安房守に叙任された。四十俵扶持に過ぎなかった小普請組の旗本勝小吉の倅麟太郎は今や大身の旗本になった。


nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。