SSブログ

創作短編(7): 父も倅も単丸 -2/4 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2010-12-29 WME36 梅邑貫

.

「岩のかどにてきん玉を打ったが、氣絶していたとみえて、翌日ようよう人らしくなったが、きん玉が痛んで歩くことがならなんだ。二、三日すぎると、すこしづつよかったから、そろそろ歩きながら貰って歩いて行ったが、箱根へかかってきん玉が腫れて膿がしたたか出た」

.

 勝小吉は文政二年(1819年)、17歳で信と所帯を持つのですが、その前の文化十二年(1815年)、13歳のときに出奔して伊勢参りに行きます。そのとき、街道筋に出没する護摩の灰に騙されて一文なしとなり、物貰いをしながらの道中旅となりました。

 その折、何処かの崖の上で寝ていて落ちてしまい、岩の角で睾丸を打ちました。この後のことは詳しくは書かれていないのですが、勝小吉は睾丸の片方の機能は失ったと察せられます。

.

 当時、旗本が四ヶ月間を無断で不在となるとお家断絶の処罰を受けるのですが、小吉は三ヶ月半で戻って来て不問となりました。

 しかし、勝家の祖母は小吉が気に入らず、かなり辛くあたったようで、小吉の脚は自然と実家の男谷家へ向いたようです。ところが、この実家で働いていた手代が小吉を連れて吉原へ通うようになり、この頃から小吉の放蕩生活が始まりました。

.

 小吉の実家の男谷(オトコダニ)家はこの時代の江戸でも音に聞こえた剣術の一家で、直心影流の宗家でもあったので、小吉も、学問は駄目でも、剣術だけは子供の頃から優れた天分を示しました。

 この頃の江戸には三つの剣術道場がありました。千葉周作の北辰一刀流は日本橋の玄武館で「技の千葉」と言われ、斉藤弥久郎の神道無念流は九段の練兵館で「力の斉藤」と呼ばれ、桃井春蔵の鏡新明智流は八丁堀の士学館で「位の桃井」と喧伝されたのですが、直心影流の男谷信友は本所亀沢町の道場を継いで「君子の剣」と呼ばれました。

 他の流派は他流試合を厳しく禁じていたのですが、直心影流の男谷は、挑まれれば拒むことをせず、三本勝負で、最初の一本を必ず取り、二本目は相手に華を持たせ、三本目では必ず相手の止めを刺したそうです。この男谷信友は勝小吉の長兄彦四郎の婿養子となって男谷家を継いだので、勝小吉は男谷家本家の叔父になり、勝海舟とは従兄弟の関係になります。


nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。