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三体詩 -2 [稲門機械屋倶楽部]

                                     2010-11-04 WME36 村尾鐵男

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李商隠「賈生」

 宣室求賢訪逐臣 賈生才調更無倫 可憐夜半虚前席 不問蒼生問鬼神                                                               〔宣室(センシツ)賢(ケン)を求めて逐臣(チクシン)を訪(ト)う。賈生(カセイ)が才調(サイチョウ)更に倫(タグイ)無し。憐れむべし夜半虚しく席を前(スス)め、蒼生(ソウセイ)を問わず鬼神(キシン)を問う〕

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李商隠(リ・ショウイン)は唐王朝後期の詩人ですが、20才代半ばに進士に合格した英才でもありました。しかし、苛烈な政争に巻き込まれて、官人としては不遇なままに終えております。

李商隠が「賈生」を詠んだこの頃、唐王朝は17代文宗(在位:826-840)の治世でありましたが、統治の実権を宦官に奪われた時期が長く、その抗争に敗れて幽閉された文宗は33歳の若さで歿しています。〈文宗は賢人を求めて地方へ流した臣下を訪ねている。賈生ほどの才能の持ち主は他にはいない。夜遅く呼ばれたのに、問われたのは統治の方法ではなく、鬼神のことだった〉との意味で、李商隠は遠まわしに文宗を非難しています。

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この頃の唐王朝は「牛李の党争」で大きく混乱していました。牛僧孺(ギュウ・ソウジュ)と李徳裕(リ・トクユウ)との間で激しい権力闘争が808年から849年までのほぼ40年間に及んで続くのですが、牛派が勢いを得れば李派が地方へ追われ、李派が中央へ帰れば牛派が追放されることを繰り返し、その度に政策が大きく変わるので王朝自体の権威が次第に弱まりました。

「牛李の党争」だけで分厚い書になるほどですが、一言で言えば、唐王朝の李姓の貴族の一人である李徳裕と進士の試験に合格した牛僧孺が率いる官僚との争いで、これに皇帝の側近であり後宮の考えも代弁する宦官が絡み、加えて皇帝の力量が不足したために先の見えない争いが長々と続きました。

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李商隠は進士でしたから、同じ進士の牛僧孺派に属したはずですが、長く続く抗争に巻き込まれて不本意な地位に甘んじたようです。牛僧孺は847年に歿し、又、李徳裕も849年に歿して、「牛李の党争」もようやく収まり、その間、17代皇帝文宗と18代皇帝武宗の二代に亘って政治が大きく乱れ、19代宣宗の時代になり、且つ牛李両者の死亡によって、ようやく本来の王朝政治に戻るのですが、ほぼ50年後に唐王朝は滅びました。

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政治の世界での派閥抗争は国家統治の重責よりも自派が他派を圧することに重きが置かれることしばしばで、その間に国力と政権の権威が衰えるのを避けることができません。ましてや政治が鬼神に頼っては最早救い難い状況となります。つい最近の日本でも卜占を好んだ政府首脳がおりましたが、まことに危ういことです。

3〉に続く


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