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中国王朝衰亡外史 -2 [稲門機械屋倶楽部]

                  2010-09-24 WME36 村尾鐵男

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周王朝と東周王朝の衰亡

前頁の表で、周王朝は紀元前1050年に始まり、紀元前770年に終焉したと記しておりますが、この後、周は東周と名を替えて紀元前246年まで存続するのですが、後半の550年間は春秋戦国時代へ入り、群雄割拠の波に揉まれます。

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周王朝は後世の王朝から、仁徳に満ちた王朝であり、統治の鑑と讃えられるのですが、それでも衰亡しました。周王朝が衰亡した理由は多々あるのですが、最も大きな理由は、周辺国に与えるべきものを与えずに独り占めしたことによる怨嗟と恨みであり、そのために次第に孤立し、加えて、他国から嫁いで来た皇后を廃したことも恨まれる要因となりました。周王朝は歴代の王が姫(キ)姓の血縁であり、一方で、同じ姓の者同士では夫婦にならないのが中国古代からの定めですから、王の配偶者はどうしても姓の異なる他国に求めざるを得ず、後宮でいざこざが生じて上手く対応できないと、皇后の出身国と戦うことにもなります。

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12代幽王は、申国から嫁いでいた皇后を廃して、愛妾である褒姒(ホウジ)を皇后にしたことから、怒った申国に攻め込まれて幽王は殺されました。王が吝嗇で女狂いとなれば国が傾くのは当たり前のことです。しかし、その周が永らえたのは、他国の王の任命権を持っていたからで、各国の王は周王によって認められて、初めて自分の国の王としての正統性が整うと考えていたからです。言い換えれば、周は王族の宗家のような存在でした。

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紀元前770年、周王朝は鎬京(コウキョウ)から洛邑へ遷都して東周と呼ばれるようになりますが、この頃から長期凋落傾向を辿り、特に戦国時代になってからは、昔の面影は完全に褪せてしまいます。群雄割拠で出現する各国の王も、周王朝に正統性を認めてもらおうとはせず、自ら王と名乗るようになり、紀元前246年、権威を完全に消失した周は秦によって滅ぼされました。

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秦の衰亡

初めて中国を統一し、初めて皇帝と名乗った始皇帝ではありますが、秦は三代で滅亡しました。その理由は、強いて言えば、始皇帝の乱費にあったであろうと考えられます。美女三千人を集めた阿房宮と兵馬俑だけを見ても、公共工事としては桁外れであり、さらに、始皇帝が乗る馬車が全国何処へでも行けるように、馬車の車幅に合わせて全国の道路幅を拡げました。この大きな公共工事を続けるために不相応に国家予算を投じ、多数の民衆を動員したのですが、それが民衆の怨嗟を誘発し、数限りない反乱や動乱に結びつき、国力が疲弊しました。その間隙を項羽の軍勢に突かれ、抗することができずに終りました。始皇帝は自らの土木好きで国費を無駄に浪費し、さらに加えて、悪名高い焚書坑儒も言論の封殺を意味し、叡智を集めることができずに統治態勢が硬直化していたと推察されます。

(3)に続く


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