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中国史唯一の女帝武則天 -4 [稲門機械屋倶楽部]

                                    2010-09-11 WME36 村尾鐵男

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太宗の死と再度の後宮入り

649年、武即天が26歳、後宮に入ってから12年が経ったときに太宗が亡くなり、皇位は李治、即ち、第三代皇帝である高宗へ受け継がれました。太宗の妃であった武即天は、太宗の死によって、選択肢は四つしかありませんでした。即ち、

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太宗の葬儀に際して殉死する。

道士となって道教寺院で修行する。

仏門へ入って尼僧となる。但し、額に焼印を捺す。

鼻を削いで世俗へ戻る。

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武則天は第2の道を選びましたが、予想外のことが起こります。それは唐王朝を継いだ高宗が出家した武則天を見そめてしまったのです。

高宗は本名を李治と言い、このとき21歳、武則天は26歳です。しかし、年齢の違いと武則天の方が年上であることはともあれ、武則天は高宗にとっては父親の妃であった女性であります。通常なら許されることではありませんが、若き皇帝を惹き付ける何かを武則天は道士になってからも依然として保っていたようです。又、史書で確認することが出来ないのですが、太宗は妃であった武則天の身体に触れていなかったとの説もありますので、太宗の実子である高宗によって、武則天が父親の妃であったとの意識が薄かったのかもしれません。

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武則天は高宗の後宮へ入りました。いや、引き込まれたと言うべきでしょう。高宗は太宗の第九子ですから、本来なら皇帝の座を継ぐはずはなかったのですが、皇太子と他の皇子との間に争いが絶えず、遂に第九子に皇帝の座が転がり込みました。

このためか、高宗はとても名君とは言い難く、首を傾げる行動が多いのですが、それ故に武則天には知恵を働かせる余地が十分にありました。

武則天は高宗によって昭儀の位が授けられましたが、この昭儀は皇后から数えて五番目の高位に位置する妃です。でも、ここでも武則天には幸運の神が味方になりました。高宗には既に王皇后がおりましたが、高宗が寵愛したのは皇后ではなく、粛淑と言う名の妃でした。そこで、王皇后は高宗を粛淑妃から少しでも遠ざけようと考え、高宗に武則天を後宮へ入れることを勧め、しかも粛淑妃と同等の地位を与えるべく計らいました。

意外な巡り合わせが重なって武則天は再び唐王朝の後宮へ入りました。そして、王皇后の企み通りに、高宗は粛淑妃への関心を失うのですが、武則天にのめり込んでしまった高宗は王皇后も遠ざけてしまいました。

(5)に続く


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