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中国史唯一の女帝武則天 -3 [稲門機械屋倶楽部]

                                       2010-09-11 WME36 村尾鐵男

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武即天の後宮入り

武則天は十四歳のときに、唐王朝の第二代皇帝である太宗の後宮へ入り、才人としての地位を得ました

才人とは妃のことですが、後宮に於ける順位は、皇后、妃、嬪、媵となります。皇后は一人しかおりませんが、妃以下は複数ですから、武即天は妃の中でも下位に位置したと思われます。しかし、武則天の家柄が判りませんが、まずまずの地位を後宮で得たと言えます。

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ところで、「媵(ヨウ)」ですが、日本語では「添い嫁」とでも呼ぶことになり、日本の歴史にはこの「媵」は現れません。「媵」とは嫁入りする娘に付き添って嫁ぎ先へ行く姉妹とか従姉妹のことですが、嫁本人に子供ができないときは、代わって子供を産む役目です。生まれた子供は、産んだ媵ではなくて、媵を連れて来た皇后とか妃の子供として育てられ、皇子とか皇女の地位が与えられます。

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日本の歴史にはこの媵と言う言葉は出て来ません。しかし、将軍が正室の身のまわりの面倒をみている側女に手を付けて子供を産ませたとかの話は少なからずあります。現代女性の観念からは、「媵」の存在は驚くべきものであり、到底承服できるものものではないはずです。さらに、日本でも地位と財に恵まれた者が身辺近くの女性に見境無く子供を産ませたことも唾棄すべきことのはずです。でも、この場では七百年とか八百年前の出来事を現代の理念で裁くことを控えて下さい。唐の王朝も、それを永らえさせるには王位を継げる子供の数が必要であり、どのような条理の下で産ませるかは二の次でした。

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武即天が媵を連れて後宮へ入ったとの文献はありませんから、単身で乗り込んだと考えられます。でも、武即天の方から売り込んだのか、美貌故に皇帝の側近の目に留まったのか、そこは定かではありません。おそらく双方相俟って武即天は唐王朝二代目の太宗の後宮へ入ったのでしょう。

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唐王朝は、李淵が隋王朝を倒して618年に建てられたので、唐王朝は李氏の王朝、或いは李姓の王朝と呼ばれます。李淵が初代皇帝高祖であり、その跡を継いだのが李世民、即ち第二代皇帝である太宗でした。

この頃、世間に「李が勢いを失い、代わって武が栄える」との流言が流行り、太宗は武将の一人を殺し、加えて武即天をも遠ざけました。太宗によってもしや殺されはしまいかと心配した武即天は太宗の子で、後継者でもある李治に取り入って身の安全を図ります。

武即天はただ美貌だけが取り得の女性ではなく、頭脳もよく働き行動力も備えた女性でありました。

(4)に続く


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