松陰先生言行録(9) [明治維新胎動の地、萩]
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下記の本から、松陰先生の教育論を紹介します。
「吉田松陰 魂をゆさぶる言葉」 関厚夫著 PHP新書より抄訳.
「文教の盛とは、書を読む者の衆き(おおき)を謂ふに非ざるなり、道を求むる者の衆き、是れのみ」。
日本では長く、読書をすることが学問、または教養そのもの、もしくはその第一義である、と考えられていました。もちろん、読書は大切です。でも、あなたたちは何のために読書をするのか、そんな質問にみなさんならどうこたえますか? 自分の知識欲を満足させるため? 試験に合格するため? 「違うでしょう。人間としての道を探しあてるためではないのか?」と松陰先生は言われています。しかし、読書とか、知識を得ることをおろそかにして一足飛びに「道を求めよ」といわれているわけではないことを誤解しないことです。 また、「書を読むものはその精力の半ばを筆記に費やすべし」とも言われています。松陰先生自身がこの言葉の実行者でした。
(短い生涯で書き残した著作や手紙などをまとめたものが『吉田松陰全集』(岩波書店)として出版されていますが、それは一冊500ページほどの大部な本が10冊になっています).
「吾れ専ら陽明学のみ修むるに非ず、但その学の真、往々吾が真と会うのみ」。
陽明学は、明時代の王陽明の思想体系ですが、最も特徴的な教えは「知行合一」という考え方で、王陽明は「現今の人は知と行とを二つに分け、まずはじめに知るということがなければ、行うことはできないなどと考える。その結果、死ぬまで何も行わず、また何も知らぬままに終わる」
また、「知っているからといってそれだけで、よくその知が発揮されたというなら、およそ仁たるべきを知っている君主は、それだけでその仁の知を発揮できたことになり、忠たるべきを知っている臣下は、すべてそれだけで忠の知を発揮できたということになる。これでは天下に知を発揮しえない者など一人もいないことになる。真の知とは行いとなってこそのものであり、行わなければ知というに値しない、と結論づけます。
松陰先生は空理空論をきらい、行動を重んじました。なるほど、陽明学と「真が会う」と考えたことでしょう。自分の日常、一挙手一投足がすべて知の実現になるわけですから、その一生に非常な緊張感があったことと思われます。
(10)に続く
N. Horiさん御紹介の東京世田谷の松蔭神社を昨夜、どこかのTVが映していました。なかなか立派な神社です。
この松蔭神社、氏子は誰でしょうか。神社は布教とか宣教をしません。普通の神社は、その近くの住民が自動的に氏子になるのですが、世田谷の松蔭神社とか杉並の気象神社のような存在はまた別です。
松蔭神社は、近くの人と共に、萩出身の方達も氏子になっていると想像します。
by 村尾鐵男 (2010-09-12 08:39)