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松陰先生言行録 -8 [明治維新胎動の地、萩]

                                                 by N.Hori 2010-08-10

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「 エピソードでつづる吉田松陰 」 海原徹・幸子著 ミネルヴァ書房より抄訳

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一日の旅程、どれくらい歩いたか

歩くスピードは、昔も今もさほど変わらず、普通の旅人は、時速4キロ、つまり1時間に1里ほど歩いた。朝早く宿を発てば、途中で何度か休憩を挟んでも、夕方までに7里や8里、つまり30キロ前後は歩くことが出来る。ところで、同時代人の中では、驚くほどしばしば旅に出た松陰の場合は、どうであったのであろうか。「旅行用心集」の第一に、旅の初心者は心がはやりやたら先を急いで歩きたがるものだが、最初が肝心、草鞋が脚になじむまで決して無理をしないように、とあるが、松陰の最初の旅が、まさにこれであった。

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嘉永3年(1850)夏、九州遊歴に旅立った松陰は、萩から四郎ケ原(大嶺)まで11里の山道を歩いたのが祟り、早くも次の日、馬関でダウンし、熱を出して寝込んだが、同じことを翌年3月、江戸に向かうときにも繰り返している。

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萩城下から江戸まで、順調ならば25日、長引いても30日程度で歩いた旅を、33泊34日も掛けて、延々と歩いた参勤交代に同道した旅はあまり参考にならないが、全国各地を歩いた松陰の旅を、彼が克明に記した旅日記で見ると、大抵、1日8,9里は歩いている。真冬の東北旅行のように雪が降り積もった険しい山道を行く場合は少し短い距離(6里)しか歩けないが、天候が良く、道も平坦ならば1日10里ぐらいは平気で歩いている。一番歩いた時は1日15時間掛かりで14里も歩いている。

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旅費はどれくらい要したのか

日本全国を歩き回り、年中旅をしていたような松陰であるが、無銭旅行でなく、野宿や托鉢もしていない。ごく普通の宿に泊まりながら、結構まともな旅を続けている。一体どこから旅費を工面して来たのか不思議であるが、旅費はいつも杉家の親たちが面倒を見ている。しかし、26国取の下級武士の生家にそのような貯えがあったとは思えない。養子に行った松陰は、吉田家の当主であり、その俸禄57石があったから、これを将来の遊学に備えて長年積み立てていたようである。

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参勤交代に随伴した旅の後、江戸で旅費の精算をしているが、道中宿料として、金1両1分と銭515文を要している。1泊平均252文の旅籠代であるが、当時の東海道筋の旅籠の1泊平均200文よりやや高い。殿様の行列に従う旅だから、並みより少し上等の宿屋に泊まったのであろうか。この他、34日の道中雑費として3148文を要したというが、1日あたり93文弱である。昼食に6,70文掛かり、1日一足は必要な草鞋代16文や川越料、渡船代も時々要したから。平均これぐらいの出費は必要であろう。ちなみに、駕籠代は、1里100文が相場であった。

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江戸遊学は、公費遊学制度が適用され、支度金2両と道中手当金1両が支給されており、ほぼ全額を支給金で賄うことが出来て、それなりに恵まれた旅であった。

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房相沿岸の踏査もそうであったが、数ヶ月間を見込んだ東北の旅は、公費補助は一切望めず、完全に自前であったから、予め相当の金額を用意しなければならなかった。結局、国許に頼んで15,6両を準備して出発したらしい。

(9)に続く


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