本邦航空黎明期外史(12):太平洋横断無着陸飛行 [稲門機械屋倶楽部]
・・・ 2010-03-23 MEW36 村尾鐵男
太平洋横断飛行について語る前に、大西洋横断飛行について簡単に触れさせていただきます。
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1919年5月にニューヨークからリスボンまで飛んだ飛行機がありましたが、これは飛行艇によって、途中で着水しながらのものでした。大西洋横断はリンドバーグに続く者が次々と現われますが、欧州側からアメリカへ向って飛んだのは1928年のドイツ製ユンカース機であり、アイルランドからカナダ東岸までの区間でありました。1930年になってフランス製の二人乗りブレゲー機がパリからニューヨークへの逆横断に成功しております。.
よく知られていることですが、高空では常に偏西風が吹いており、その速度は平均的に時速100㎞ほどになり、穏やかな風でも50㎞、激しいときは150㎞にもなります。ですから、リンドバーグが33時間を掛けて飛んだ大西洋航路は、東から西へ飛べば、3,300㎞ほども余分に飛ぶことになります。.
話は逸れますが、私がリンドバーグの偉さを知るのは、単独飛行もさることながら、当時のエンジンのTBO(Time Between Overhaul:オーバーホールから次のオーバーホールまでの法定時間間隔)が僅かに50時間ほどであった時代に、しかも試験飛行や慣熟飛行で10時間ほどを飛んで、残りが40時間ほどしかないエンジンで33時間余の飛行を敢行したことで、まさに冒険に値します。.
他の大西洋横断飛行は二人以上が乗組む大型機で挑んでいますが、リンドバーグは敢えて小型軽量機による単独飛行を行いました。リンドバーグの著書”the Spirit of St. Louis”によれば、単独飛行で機体重量を軽くし、それによって単発の軽い飛行機が可能になると考え、周囲の反対を押し切って単発機による単独飛行を行っております。搭載した燃料は450ガロンもの量であり、ドラム缶9本にも相当します。この大量の燃料を入れたタンクは操縦室を狭め、前方窓も塞がれ、リンドバーグは脚を伸ばすこともできなかったそうです。.
リンドバーグがこのように小型軽量の単発機で大西洋横断単独飛行に挑戦したのは、リンドバーグが若い無名の飛行士で資金が集らなかったので、止むを得ずに選んだ策であったと言うのが真相でありますが、人間、何が幸いするか判りません。ところで、リンドバーグが手にした賞金の25,000ドルは、今なら幾らに相当するのでしょうか。.
話を太平洋横断飛行に進めますが、大西洋よりも東西間の距離が長い太平洋ですから、当然のことながら偏西風に逆らうことなく、西から東へ向って飛ばなくてはならず、その出発点となったのが青森県の淋代海岸でした。
私は淋代海岸を訪ねたことがなく、その様子を知りませんが、長い直線路が確保され、硬い砂の海岸だったのであろうと想像します。.
昭和6年(1931)10月4日、淋代海岸から飛立った二人乗り組のミス・ビードル号が41時間10分、距離7,850㎞を飛び越え、ワシントン州ウェナッチ市の泥沼に着陸しました。二人の操縦士はクライド・パングボーンとヒュー・ハーンドンでしたが、本来は世界一周飛行の記録8日15時間51分を更新すべく飛行していたのですが、記録更新が絶望的となり、太平洋横断への挑戦に目標を変えたもので、機体を軽くするために淋代離陸後に車輪を捨て、しかも本来の目的地であるソートレイクまで到達できずにワシントン州に降りてしまいました。
このとき、淋代では海岸の砂を固め、その上に杉の板を敷き詰めるため、地元の人達が大いに協力しております。.
太平洋横断飛行は前年の昭和5年秋から別の者達によって試みられておりましたが、いずれも失敗して、上記の成功は4回目の挑戦でした。
翌年、昭和7年9月24日、日本人による太平洋横断飛行が試みられました。第三日米報知号と命名された飛行機に日本人飛行士三名が乗り込み、三度目の滑走でようやく離陸したのですが、その後に行方不明となりました。.
第三日米報知号とは報知新聞が使っていた報知号の一機が提供されたものですが、ドイツ製ユンカースA-50型機でした。詳細は判らないのですが、剥き出しの操縦席が縦に並んだ単発機のようで、これで長時間の飛行を行うのは無理だったと想像されます。.
一方、日本製の飛行機を日本人が飛ばして太平洋を横断しようとの動きは現実にありました。リンドバーグが大西洋横断単独飛行を成功させた昭和2年、これに刺激を受けた帝国飛行協会が太平洋横断飛行を企画し、そのための長距離機の開発が川西によって始められました。川西は軽輸送機や郵便輸送機を着実に開発し続けて実績を残しており、その延長線上に太平洋横断用のK-12型が開発され、昭和3年に2機が完成しました。エンジンは川崎製BMWのV12水冷式でした。
しかし、強度不足とかエンジンの信頼性不足等により、太平洋横断飛行には無理が多いとして計画が中止され、次の具体策が出て来ない内にアメリカ人が操縦するミス・ビードル号に栄誉を奪われました。このミス・ビードル号はアメリカのヴェランカ社製の単発機で小型機の部類に入ります。.
この程度の飛行機は当時の日本の航空技術で製造できないはずはないのですが、上海事変や満州の問題などで日米間が不穏になり、日本人による太平洋横断無着陸飛行は、私が知る限り、戦前には実現していないと思われます。
(13)に続く
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