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本邦航空黎明期外史(4):最初に飛んだのは誰か [稲門機械屋倶楽部]

                                 ・・・2010-03-12 MEW36 村尾鐵男

最初に飛んだのは誰か

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我が国で最初に飛行機を飛ばしたのは、明治43年(1910年)1219日、代々木練兵場に於ける徳川好敏、日野熊蔵の二人の陸軍大尉であるとされており、公式記録にも残されております。

実は5日前の1214日に、日野歩兵大尉が飛行を行って60mを飛んだのですが、これは飛んだのではなく、「跳んだ」のだと認定され、19日の再飛行で両者共に「飛んだ」と認められました。

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徳川好敏工兵大尉は清水徳川家の当主でした。清水徳川家とは徳川御三家に次ぐ御三卿の一つで、維新後は早稲田の甘泉園に邸宅を構えていました。陸軍士官学校15期卒業で、フランスへ飛行技術習得のために派遣され、アンリ・ファルマン複葉機を持って帰国しました。第二次大戦終結直前には男爵・陸軍中将で航空士官学校校長の任にありました。

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日野熊蔵大尉は明治10年に肥後で生まれていますが、相良藩士の家系で徳川大尉より6歳年上であり、陸軍士官学校も10期卒業です。ドイツへ派遣されて航空技術を習得してグラーデ単葉機を持って帰国しておりました。大正5年(1916年)に歩兵中佐に任じられておりますが、大正8年には予備役に編入されました。日野大尉の兵科は歩兵ですが、先に記した臨時軍用気球研究会に配属されたことから飛行技術習得要員に選ばれたと考えられます。

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陸軍士官学校は二期上の者を追い越すことは絶対にあり得ないと言われており、日野大尉は徳川大尉の五期も上です。叉、明治431214日、日野大尉が60mを「跳んだ」とき、徳川大尉は駆け寄って祝いの言葉を掛けているとも伝えられています。

しかし、陸軍上層部は徳川清水家の当主である徳川大尉に華を持たせたいと考え、一方で、陸軍士官学校卒業順序の秩序も保ちたいとも考え、再飛行による両者同日成功の判定を行ったと噂されました。

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当時、世界一の航空工業国はフランスであり、ドイツはフランスよりかなり遅れていると見做されており、徳川大尉をフランスへ派遣し、日野大尉をドイツへ派遣したことに既に何かの意図を感じます。

尚、1219日の両者による飛行はいずれも高度70mほどで、3000mの距離を4分か5分を掛けて飛びました。徳川大尉のアンリ・ファルマン機は二人乗り複葉で、自重500kg、エンジンは50馬力でした。一方、日野大尉のグラーデ機は一人乗り単葉、自重225kg、エンジン出力は僅かに24馬力です。

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この後、陸軍はアンリ・ファルマン機を採用し、これを基にして臨時軍用気球研究会が設計して我が国で製造することになりますが、その機種は「会式」と呼ばれております。「会式」の「会」は臨時軍用気球研究会のことです。

(5)に続く


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ぼくあずさ

私の曽祖母(嘉永2年、1849-1944)から、母(1908-2000)は子供の頃に「いまに人に翼が生えるよ」とよく聴かされたと云う。日本での初飛行は母が生まれて直ぐの頃だったことが分りました。
「私は侍の娘の孫だ」と苛めっ男子に言い放ったと云う母ですから、戦後民間旅客機が飛んだ時は喜んで搭乗するほどの、飛行機好きで、海外旅行の為にローマ字も密かに自習しました。

by ぼくあずさ (2010-03-16 11:46) 

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