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母方の曾祖母が増戸村伊奈の大本家野嵜に嫁いだのか謎に迫る! [秋川の流れ]

母から聞き及んだ僅かな断片的な情報の糸を辿る。曾祖母杉浦スミ嘉永元年(1213年)生まれは上野戦争当時、不忍の池畔の屋敷に住んでいた。横浜戸塚平戸の杉浦陣屋、相模の国支配処に6年間身を潜めた後、西多摩郡増戸村伊奈の大本家野嵜に嫁ぎ、二男一女を産んだ。長男は若い時に村初めて見る米国製自動車で東京湯島の順天堂醫院に入院、亡くなった。私の祖父野崎玉之助の娘、私の母は江戸城内将軍政治の中枢であった中奥の女官を務めたスミさんから日々幅広い知識を伝授された。

母は下谷の従兄Yさんを私の教育係に指名した他、早稲田大学機械工学科での4年間は学術に秀でるべし、成績は気にしないでよいとの教えを授けられ、富士電機入社後の1970年西ドイツSiemens TuWへの企業留学出発に際し人脈作りを云われた。
杉浦スミは桓武平家を祖とする三浦大介義明を直系祖先とする。和田合戦(1213年5月24日)に敗れた一族遠くは近江に逃れ杉浦に姓を代え、蟹江城合戦で2名が7本槍として軍功を挙げ、徳川家康に認められ、第3代将軍家光の元で勘定奉行として完全復活、第16代徳川慶宗の幕末には8300石取りの筆頭旗本になり、江戸奉行勘定奉行、外国奉行を歴任した。明治維新後は日本帝国陸海軍の中将4名、少将2名を輩出した。

増戸村の先代萩で有名な大悲願寺は源頼朝の壇越で創建されている。大本家野嵜の墓は大悲願寺の分院成就院にある。成就院は岩走神社の崖の上にある。岩走神社は信濃の国伊那郡の戸隠神社奥社から勧進。伊奈石を求めて12名の石工が増戸村伊奈に住み着いたと云われる。

大本家野嵜のご先祖は石工との言伝えはない。野嵜は大悲願寺の裏山、横沢を水源とする水路を水源のない阿伎留台地の中央、水堀で広大な田んぼを持ち、水路は祖母の実家新宿・在原の広大な畑を潤し、更に山田の旧家大福の屋敷脇を経て山田の堰脇の田んぼに流れ込んでいる。

なお杉浦スミさんの娘は大福に嫁ぎ、大福の娘は長男の嫁です。彼女は長男の病死後、お歯黒をしていたのが記憶に残る。
結論として大本野嵜は杉スミさんと同じくじく和田一族であり、本家の叔母の実家と同じく和田落人であり、大悲願寺の庇護の元、檜原村から伊奈村に移り住んだと思われる。大福には1644年の古文書が残るが、大本家野嵜のルーツが分かる文書類は町奉行永井により総て破棄されたと思われる。














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