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Familie Gedichte : 三浦⇒杉本⇒和田⇒杉浦 [フリューレン村だより]

                       byぼくあずさ
1213年5月24日、鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛は和田合戦に敗れた。
私の母方の本家の恒智叔父に嫁いだ岡部タツの生家は檜原村の山林大尽。
山梨県上野ヶ原から山越えして人里へ、和田落人七軒組です。
1555年 近江に逃れて杉浦姓を名乗り、蟹江城の攻防で七本槍の二人杉浦義貞、杉浦
勝吉が武勲を挙げ徳川家康の父松平広忠に認められた。
私の名「捷二」は杉浦勝吉にあやかったのかも知れない。
1623-1651年徳川三代将軍家光の時代には勘定奉行になり復活。
幕末には江戸町奉行、勘定奉行など歴任、8400石取りの筆頭旗本として権勢を誇る。
1849年 嘉永元年に私の曾祖母杉浦スミが江戸上野池之端に生まれる。
    昭和22年夏、母に連れられ池之端のお屋敷を訪ねた。
1868年 上野戦争勃発、相模の国戸塚平戸にある杉浦陣屋に避難。
スミの次男、私の祖父野嵜玉之助誕生。
父は静岡宿伝馬町で立川流宮大工の家に生まれた。実家の家紋は何故か明智光秀家と
同じ丸に桔梗。私の曾祖母杉本キクの生家は伝馬町の絵双紙商。
1,213年和田合戦で敗れた和田一族の多くが駿府に移り住んだ。キクの一族もその
中にいた!?
私の父母は共に桓武平家を祖に持つ三浦一族の傍系和田一族の末裔であり1,213年の
鎌倉和田合戦に敗れ母方は近江へ、父方は駿府へ。720年の長い歳月を経て父が
山のマークの青梅柱材の仕入れに訪れた都下西多摩郡増戸村伊奈の母の生家で母を
見染めた! 

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