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2018-03-06 [フリューレン村だより]

                by ぼくあずさ

私の自慢の母は家老の娘杉浦スミに可愛がられ、祖父野崎
玉乃助が三内の小机大尽の山林を独占伐採製材して青梅柱材を
東京、横濱に出荷、買付に来た駿河生まれ育ちの日本一の
材木商武市の番頭の父と結婚。
先に静岡中学卒で深川の材木問屋で働いていた伯父の勧めでの
武市への就職。関東大震災の際は立掛けた柱材の上でギョク
拾いの最中に大きな揺れで柱材は音を立て運河に倒れ落ちた。
咄嗟に電柱にしがみ付き最初の難を逃れた。実家のある上野へ
避難行、墨田川を渡る橋が落ちているのに気ずき元に戻る。
次に被服廠への避難を思い止まり九死に一生を得た。

では何故私が早稲田に進学したかについて考察する。
勧学講院を起源とする旧天台中学、駒中に兄が入学。
私は開成中学受験をせず、駒中へ。頭の良い連中は皆開成受験
失敗組でした。私の学んだ滝四中からは2人合格後退学。

私は幼児のころ町医者に死んでしまうと言われたと聞いていた。

義理の伯母の弟の息子が開成に入学後退学の事実から母が開成
中進学を避けたのだと考えていた。
今思うに母は徳川慶喜や杉浦一族が上野寛永寺内で生活して
いたことを祖母スミから聞いていたに違いない。
寛永寺内にあった勧学講院を起源とする旧天台中学の駒中に
兄や私を入学させることが必然であった。

私が早稲田を選んだのは中学時代の早大文学部卒のA先生から
早稲田には門がないから誰でも入れるという言葉と落ちても
恥ずかしくない早稲田の機械科との認識でした。

若し開成中を受験していれば間違いなく東大機械科に進学して
いたに違いない。

昭和36年にSiemensの技術と古河財閥の重電メーカー富士電機
に入社、火力熱計算係に配属、4人の係員は私以外の3人は全員
東大機械科卒でした。昼休み時間は係員2人で東大機械科で
流行っていたオークションブリッジを仲良くやっていました。
私が断った原子力設計も皆東大機械科卒でした。

高三の時、同志社大学への推薦入学を母に話したら、京都へ
行くのなら京都大なら良いとの返事。
其の後、現役生活後半に京大での研究へのお誘いがあったが、
後先を考えずお断り。これは今では残念なことをしたと後悔。
杉浦スミの一族は徳川慶喜について駿府に移住。

何故スミが伊奈村伊奈の野嵜家に嫁がされ、慶喜の大政奉還後
の混乱の時期が過ぎても駿府や東京の杉浦家に戻らなかった
理由は後程報告する。





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