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杉浦スミ [フリューレン村だより]

                by ぼくあずさ

母から伝え聞いていたご先祖杉浦スミに係る情報の裏付けが
ほぼ終わった。幾つか確認出来ないことと不可思議なことが
判明した。

徳川幕府倒壊後に徳川慶喜と共に家臣団が駿府に移動、
その中に杉浦一族の氏名を確認した。明治3,4年のこと。
杉浦スミの武蔵野国伊奈村の野崎家への輿入れは明治5年11月。
彼女は長男長蔵、私の祖父次男玉之助と長女ブンの3人の子供
を産んだ。長蔵は成人後に病気で東京の病院(順天堂病院)
に村初めて自動車で入院した出来事も確認。

ブンは大福の長男へ、大福の長女は野崎の長男へ嫁いでいる。
大福は古文書所蔵で知られた旧家の一つ、大福出身の嫁は当時
でも珍しいお歯黒でした。
次男の息子正治叔父と孫の私に杉浦一族所縁の命名。

薩長の役人に捜索を避け不忍池畔の家老屋敷から伊奈村への
避難は近藤勇の配下の護衛があり、一時逗留先の永井は隠密の
村奉行の可能性がある。

曾祖母スミの母親欄は訳あって記載せずの但し書き。・・・
松平何某であったのかと推察する。
もう一つ杉浦スミの元に終生仕え、スミが昭和17年に亡くなった
直後家督を棄て大阪に転籍した重三の母親はくノ一だったのか?
重三はスミを終生守る使命を与えられ、永井の監視下にあったと
おもわれる。

今朝実兄に電話でスミさんについて訊ねた。
次男の野崎玉之助宅を訪ねて来た折に度々お会いしたという。
引田の叔母の話では男子の誕生日に来られる。大本家まで同伴
してお送りしたという。一男兄も同じ役目を与えられたという。
彼によればスミさんは背は低いが歩くのが早かったそうです。
言葉数は少なく大変強い感じの方だった。5日間床に伏して
亡くなった。私が記憶している盛大な葬列はスミさんんものでは
なく祖父玉之助さんのものとのこと???
今では一男兄はスミさんを知る最後の一人です。
私が縁故疎開で母の生家で暮らしていた頃、大本家の屋敷から
旧五日市街道への私道の脇にある二サさんと呼ぶ家が食料調達係
でした。スミさん一家もお世話になったと思われる。
山のマークの青梅柱材を手広く商っていた祖父玉之助は山内
大尽の山林を独占的に伐採、此れも杉浦一族のバックアップ
あっての事と思われる。








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