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創作短編(50): 五十回記念 山岡鐵舟 -20/22 [稲門機械屋倶楽部]

               2012-08 WME36 梅邑貫


 山岡鐵舟は侍従を務めた後、宮内省の上から四番目の宮内大丞や三番目の宮内少輔も務めますが、明治十年(1877年)に西郷隆盛が西南戦争で没した後も、「西郷殿との約束」だからと言って、明治十五年(1882年)までの十年間を宮内省で働きました。山岡鐵舟はこの十年間の宮内省勤めが功績となって、明治二十年(1877年)に子爵に列せられます。

 宮内省を辞した翌年の明治十六年(1883年)、山岡鐵舟は維新で殉じた人達の菩提を弔うために、東京の谷中に普門山全生庵を建てました。
 さらに、暫く遠ざかっていた剣術修行を再び始めており、一刀正伝無刀流、俗に言う無刀流を開き、その開祖ともなりました。

 山岡鐵舟が静岡権大参事の頃、清水次郎長がしばしば訪ねて来たのですが、ある日、鐵舟は次郎長に厚く礼を言いました。
「咸臨丸のことでは、えらく世話になった。わしは知らなんだので、礼を申すのが遅くなった。許されよ」
 咸臨丸のこととは、明治元年(1868年)九月十八日、清水湊に停泊中の咸臨丸が官軍の攻撃を受けて沈没し、大勢の者が傷付きましたが、徳川方の幕臣が次郎長の手で救われ、官軍の知らぬ場所へ匿われ、死者はこれも次郎長の手で手厚く葬られました。
 次郎長のこの行為は官軍によって責められますが、それに対して次郎長は啖呵を切っています。

「人は死ねば仏だ。仏に徳川も官軍もない。仏を葬って悪いなら、この次郎長、どんな罰でも喜んでお受けしますぜ」

 山岡鐵舟は、この次郎長の勇敢な行為をそのときは知らなかったのですが、数年後に聞き及んで、次郎長に是非とも礼を言わなくてはと思い続けていました。
 次郎長も山岡鐵舟の飾らぬ素直さに感激し、自分より十六歳も若い鐵舟を「俺の親分は山岡鐵舟先生だ」と誰憚ることなく言っております。


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