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創作短編(42):板額御前 -1/10 [稲門機械屋倶楽部]

                          2012-04 WME36 梅邑貫

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時     :平安時代後期から鎌倉時代初期

場所   :越後國鳥坂城から鎌倉へ、鎌倉から甲斐國浅利郷へ。

登場人物:板額御前

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 板額御前(ハンガク・ゴゼン)は、ときに飯額とか飯角とも書かれますが、よく知られた板額御前を遣います。しかし、時代が古く、生年と没年が不詳です。板額御前はその名からも察せられるように女性で、越後の國が生んだ女武者で弓の名人でした。

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鎌倉時代初期、建仁元年(1201年)三月末、越後國鳥坂城で板額御前は甥の城資盛(スケモリ)に語り掛けました。

「資盛殿、私に兵を貸していただけぬか。兵の数二十。如何じゃ」

「叔母上、兵はお貸し致しまする。しかしながら、どの兵も叔母上には到底敵いませぬ。それで宜しくば、如何ようにもお使い下され。しかしながら、兵を如何致されまするか」

「私の背後を護って欲しいのじゃ」

「背後とか、如何に」

「ほどなく源氏の軍勢が押し寄せて参りまする」

「はい。左様心得ておりまする。吾等、城(ジョウ)一族、覚悟を固め、源氏の荒武者共と言えども、怖れてはおりませぬ」

「私もこの鳥坂城を枕にして討ち死の覚悟。私は高き櫓より敵将の兜に狙い定めて思い切り矢を射りましょうぞ。されど如何な私も背中には眼がありませぬ故、忍び寄りたる敵兵を討ち、私を護って欲しいのじゃ」

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 鎌倉時代の正史とも呼べる「吾妻鏡」には板額御前の弓の腕前を百発百中と讃えています。一説では、板額御前の背丈は六尺二寸と伝えられます。現代流に言えば、身長188cmです。当時の男の平均身長は150cmほどと言われておりますから、板額御前の一際高い背丈は群を抜いており、その長く力強い腕から放つ矢の威力は恐怖の的であったろうと想像されます。板額御前の兄の城長茂(ナガモチ)の背丈は七尺(2m12cm)であったと伝えられますから、城一家は男も女も大柄な家系であったと推測され、板額御前の六尺二寸は現代でも立派な体格です。


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