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創作短編(40):渡辺崋山 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                    2012-03 WME36 梅邑貫

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  鳥居耀蔵の標的は江川英龍でした。江川英龍は林家に師事して一度は朱子学を学んでいますが、その後に西洋の学問に転じたので、鳥居耀蔵から見れば裏切り者でした。しかし、江川英龍は老中水野忠邦に庇われていて手が出せないので、尚歯会の他の者に嫌疑が掛けられ、天保八年(1839年)五月十四日、渡辺崋山を含む八名に出頭命令が出され、渡辺崋山の「慎機論」と高野長英の「戊戌夢物語」が幕府批判と見做されて十八日に八名が捕らわれました。高野長英は、一度は逃亡しますが、後に出頭しています。

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 これを「蛮社の獄(バンシャのゴク)」と呼びますが、蛮社とは南蛮カブレとか西洋学問の一派を意味し、江戸後期の思想と学問の弾圧事件として記録されます。

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 渡辺崋山は、高野長英を庇って多くを語らなかったのですが、永蟄居となって三河田原藩へ送られました。永蟄居とは、死罪は免れたものの、終身禁錮と同等であり、渡辺崋山は三河田原の池ノ原に蟄居します。

それから二年が過ぎた天保十二年(1841年)十月十一日に、渡辺崋山は「不忠不孝 渡邊登」の短い遺書を残して自刃しました。渡辺崋山、四十九歳でしたが、明治維新の二十七年前のことです。

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渡辺崋山の母栄は健在でありましたが、我が息子崋山が武士の子として生まれ、武士として研鑽を続け、武士として三河田原藩のために貢献したことに不満は抱いていなかったのですが、不孝な最期に、「登は何処にいようが我が子。でも、何故、母より先に逝ったか」と、人知れず涙したと伝えられております。

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慶應四年(1868年)三月十五日、幕府は渡辺崋山の名誉を回復して墓所の建立を認めますが、この慶應四年九月八日に明治と改元され、明治天皇が江戸城へ入られたのが十月十三日でした。

渡辺崋山が蟄居した家が今も愛知県田原市内に復元されて残されております。

                          (了)


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