創作短編(36)新春号: 山川捨松、又は Sutematz -3/15 [稲門機械屋倶楽部]
2012-01 WME36 梅邑貫
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澤辺琢磨その人と山川家との関係は筆者梅邑貫の力量不足で詳しくは判らないままですが、当時既に箱館にあった日本ハリストス(キリスト)正教会に属する日本初の正教徒であり司祭でもありました。
ところが、山川咲子はこの正教会司祭澤辺琢磨の家で世話になるのではなく、澤辺琢磨を介してフランス人の家に入りました。
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箱館は明治になってから函館と書かれますが、榎本武揚が率いる旧幕府軍と新政府軍が五稜郭で戦った頃は箱館と記されました。五稜郭の戦いは箱館戦争とか「己巳(キシ)の役」と呼ばれます。會津若松城での戦いが干支の戊辰(ボシン)の年で、箱館戦争は明治元年(1868年)十月二十一日から明治二年(1869年)五月十八日まで、即ち戊辰の次の年に戦われたので己巳の役とも呼ばれます。
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尊皇か佐幕かと日本が二つに割れていたとき、フランスは幕府を援ける側にあり、榎本武揚の軍には軍事顧問としてフランス軍人が同道して箱館に入っていました。
一方、公家の清水谷公孝(キンナル)と薩摩藩士で参謀の黒田清隆が率いる政府軍側は、「土方を撃ってもよいが、フランス人は撃つな」と命令を発していました。土方とは仙台から榎本武揚の軍に加わった新撰組の土方歳三のことですが、フランス人のみならず外国人を撃つと後が面倒になるので、フランス人には鉄砲を向けませんでした。
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かくして、山川咲子が函館へ渡ったとき、フランス人が多くはないでしょうが、現実に住んでおり、キリスト教会の司祭であった澤辺琢磨がそのフランス人達と親しかったであろうことは容易に想像できます。
「咲子、驚くでないぞ」と、澤辺琢磨が語り掛けました。
「何ごとでございましょうか」
「咲子はフランス人の家で世話してもらうことになった」
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山川咲子、未だ十一歳の咲子には声も出なかったであろうと察せられます。母親から離れて独りで箱館へ来たことそのものが心細いものですが、加えてフランス人の家庭へ入ると聞かされて、山川咲子ならずとも暫しは声も出ないはずです。
「私、異国の言葉はできません」
「うん。先方は承知の上だ。心配は要らん。それに、咲子はまだ子供。異国の言葉は子供の方が覚えるのが早いものだ」
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