創作短編(35):謀臣本多正信 -5/9 [稲門機械屋倶楽部]
2011-12 WME36 梅邑貫
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宇喜田秀家の屋敷で、石田三成は悶々として周囲の煮に問い続けていた。
「佐和山へ戻りたいが、道中遠く多勢に無勢、如何にして戻ろうかのう」
しかし、答える者はおらず、生き延びるためには武断派の諸将に恭順を誓うことしか残されていないかと悩んでいた石田三成は、徳川家康の命で結城秀康が手勢を引き連れて現われ、佐和山まで護衛すると聞いて喜んだ。
「結城秀康殿に向かって矢を射る者は、徳川家康殿に向かって刀を抜くと同じ。これで佐和山へ無事に戻れよう」と、周囲の者達を鼓舞して直ぐに大坂を離れた。
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居城の佐和山城へ無事に到着した石田三成は、結城秀康への感謝の証として名刀「五郎正宗」を進呈し、結城秀康はこの刀を「石田正宗」と呼んで大切にし、今、この名刀「石田正宗」は東京国立博物館に所蔵されている。
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石田三成を近江の佐和山城へ無事に送り返して騒ぎも治まり、家 康は正信を呼んだ。
「正信、その方は、よう頭が働くのう」
「殿にお仕え致しまするに、正信、この術しか持ち合わせておりませぬ」
「うん。それでよい。今の正信のままでいてくれ。間違っても忠勝の真似をするではないぞ」
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同じ本多の名で本多平八郎忠勝がおり、生涯に五十七回の合戦をして、かすり傷一つ負わなかった槍の名人であった。常人は十五尺の槍を持つが、平八郎は二十尺(≑6m)の槍を繰り出し、その穂先は一尺四寸五分(≑44cm)もあって、刃先に停まった蜻蛉(トンボ)が二つに切れる「蜻蛉切」で勇名を馳せた。
ところが、本多正信には武勇伝がまったく伝わっておらず、それどころか若い頃には家康の命も狙ったことがある。
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