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創作短編(33):藤堂高虎と西島八兵衛 -3/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-11 WME36 梅邑貫     

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 元和(ゲンナ)五年(1619)、藤堂高虎は西島八兵衛を呼びました。

「八兵衛、わしと一緒に参れ」

「殿はどちらへ参られまするか」

「上様より京都二条城の修築を命ぜられたのじゃ」

「では、京の二条城へお供致しまするか」

「そうじゃ。縄張りを教えようと思うておる。どうじゃ」

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「縄張り」とは当時の言葉で、設計と施工監督を意味します。この元和五年、藤堂高虎は五十五歳で、西島八兵衛は二十五歳でした。この頃、藤堂高虎には慶長六年(1602年)生まれの実子高次(タカツグ)がおり、十八歳でありましたが、子供に恵まれなかった藤堂高虎には津藩を継ぐ大切な子供でありました。又、藤堂高虎には、実子の高次とは別に、丹羽長秀の三男で養子にした高吉がおりますが、既に四十歳を越えており、藤堂高虎の城代として伊予今治藩へ赴いておりました。藤堂高虎は大名で藩主としての高虎ではなく、築城の名手としての高虎の後継者に西島八兵衛を育てようと考えたようです。

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「この八兵衛に縄張りをお教えいただけまするか」

「うん。わしの跡を継ぐのじゃ」

「はい。二条城へお供させていただきまする」

「永く続きおった戦国の世、城も濠も川も池も、何もかも荒れ果てておる。これからの縄張りは忙しゅうなるぞ」

「はい。心して学ばせていただきまする」

「うん。わしの縄張りを常に側に控えて、具によう見ることじゃ。それとな、八兵衛、わしのやることが判らんときは、必ず何故かと問うことじゃ。遠慮は一切無用ぞ」

「はい。殿から、八兵衛は少し黙っておれとお叱りを受けるほどに訊ねさせていただきまする」

 かくして築城の名手藤堂高虎とその弟子である西島八兵衛の主従が誕生しました。


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