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創作短編(28):追い腹は切るべきか -2/9 [稲門機械屋倶楽部]

                                      2011-09 WME36 梅邑貫

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 その人物は浮橋主水(ウキハシ・モンド)でした。天正十五年(1591年)に平戸近くの島で生まれた漁師の子でしたから、追い腹を切る切らないの事件は浮橋主水が四十七歳、既に十分な分別を持っているはずのときに起きました。

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 経緯も時期も不詳ですが、漁師の子が藩主松浦壱岐守の目に留まり、寛永元年(1624年)に平戸藩へ仕官して浮橋主水と名乗り、仕事振りも優れていたのでしょうが、近習から馬廻り役四名の一人に起用され、さらに藩主の使番(ツカイバン)へと昇進して三百石の禄を受ける身分となりました。

 近習(キンジュウ)とは、常に藩主とか主君の側に控えて、身の廻りの世話や秘書の役目を果たす者で、頭脳明晰で身元の明らかな者でなくては務まりません。

 馬廻り役とは、一言で言えば、主君を警護する護衛の役目であり、戦時には主君が乗る馬の廻りを固めて護衛します。

 使番とは、主君の名代となって各所へ出掛ける役で、ときに代官所のような出先機関の監察も行いますので、極めて重要な職です。

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 この重要な職を、代々続く家柄の者や戦時に武功を立てた者が務めるのであれば誰も異を唱えないのですが、漁師の子であった者が務めれば、これは藩主による格別の恩顧となります。

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今日流に言えば、漁師の息子であった者が、総理大臣に見込まれて側近として仕え、特別監察官として政府機構の各所を査察し続けたのですから、世間からはそこに格別に親しい信頼関係があったと思われるのは当然です。今の時代ならともかく、四百年前の日本ですから、「追い腹」は当然のこととなります。本人の浮橋主水も口癖のように「追い腹を切る」と言い続けました。

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「殿に万が一のことあらば、某(ソレガシ)、躊躇うことなく追い腹を掻き切り申す。それが殿より賜った恩顧に報いる術と心得ておる」

 松浦壱岐守隆信が病に伏すと、浮橋主水の言葉はさらに強くなりました。

「某、常に身体を洗うて身を清め、いつでも追い腹の覚悟を固め申しおる」


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