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発明馬鹿 -16/16 [北陸短信]

                                                               刀根 日佐志..

 一足先に第一湯本亭に来て、有名な骨董品コレクションで名の知れた第一湯本亭の名品を見せて貰っていた本多部長が、防水工事を見にやって来た。本多は、この三人の様相を見て、異次元世界に入り込んだのかと錯覚を覚えたに違いない。

セメントで汚れた八郎と草本の顔は、判別できたのだろう。だが、いつも凛々しい顔の長官を見ている者は、手に糠味噌の付いた沢庵を掴み、顔面を真っ赤にした顔を見て、長官と思うものはいないであろう。やがて長官の顔だと気が付いたのか、本多は「遠藤長官だ!」と呟いた。一方、長官は、この場で八郎、本多と鉢合わせするとは、考えてもいなかったことであろう。頬を真っ赤に紅潮させ、うろたえるのは当然である。今迄に、国会でもこんな取り乱した姿を見せたことは一度もなかったであろう。

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防水工事は一先ず成功した。予期もせずに、長官にも会えた。あのとき、草本がいなければ、長官に抱きついていたのにと再び思い返していた。長い間、不運続きの八郎は、やっと薄明かりのようなものに手が届いたと考えていた。これを掴み取らなければ、もう再起はないように思えた。

先が見え、しばしの安堵を得た八郎は、仕事を切り上げて、七ヶ月ぶりに自宅に帰ることにした。草本は行き先が同じなので八郎の車に同乗して、彼の奥さんに会い、挨拶してから帰ることになった。八郎は途中、車を止め高級洋菓子店で、入念にケーキーを選んだ。

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高崎の事務所から二時間位、郊外へと車を走らせた。八郎の自宅の前に着くと、夕暮れが迫り薄暗くなっていた。家の前に植えられた数本の南天には、鮮赤色に色付いた実はなかった。今は寂しげに濃緑色の小さな葉だけが風に揺れていた。毎年、八郎は赤い実を見るのを楽しみにしていたが、もう、とっくに季節は過ぎていた。

玄関の外灯が点いていなかった。何となく寂しい雰囲気に感じられた。八郎が玄関の扉を開けようとしたが鍵が掛けられていた。チャイムを鳴らしたが誰もいない様子である。妻は多分子供をつれて買い物にでも出掛けたのであろうと話しながら、八郎は鍵をあけ玄関に入った。導かれるままに草本も後についてきた。

八郎が奇異に感じたのは、靴が一足も並べられてないのと、しばらく、人がいた温もりが感じられない。これは買い物に出掛けたりしたのではなく、数日前か、もっと前から留守になっている気配である。

八郎の脳裏には虚無感がよぎって行った。彼は、こんな感慨を以前に持ったことがあるのを思い出していた。見る見るうちに顔面蒼白になるのがわかった。居間に入ると、テーブルの上に走り書きのある便箋一枚に、書類が一通置かれてあった。

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もうどんなことが生じたかは、八郎には分かっていた。便箋の下に重ねてあった書類は妻の名前が記された離婚届であることは……。八郎は書類を掴むと、板の間に叩き付けてから、しばらくそこにしゃがみ込んだ。草本は、その場に立ち竦んでいた。

テーブルに置かれた菓子折りが無言で、ただひたすらに、団欒を待ち侘びていた。その場から急に立ち上がると、八郎は夢遊病者のようにふらふらと玄関の方へ歩を進めた。そして玄関を出ると車に飛び乗り、会社の方角へ走った。八郎は草本が側にいたことをも、もう忘れてしまっていた。    

                                                                               (了)


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