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創作短編(22): 遠浦帰帆圖と織田信長 -7/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                    2011-06 WME36 村尾鐵男 

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  織田信長の最期は不明ですが、太田牛一が「信長公記」で偽りを書いているのではありません。太田牛一は織田信長配下の足軽であったと書きましたが、弓の名人で、信長の戦いには常に従軍して出色の手柄を立てており、織田信長を適正な距離から仔細に観察できた人物であると考えられます。信長の最期については、当時の武将の常識として、敵方に囚われる前に自刃するのが当然であり、遺体の有無に関らず、太田牛一の記述は当然の表現です

 他方、ルイス・フロイスは信長の鉄砲と弾薬の調達に力を貸したと十分に推測できます。

楽市楽座を認めて自由な商いを信長から許されていた堺の豪商達は茶道でも信長と親しい関係にありました。信長は鉄砲と弾薬の調達を最初は堺の豪商を介していたのですが、これが次第に博多の豪商を頼るようになり、その先にルイス・フロイスが存在したとも推測されます。

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天正十年六月二日、本能寺での茶会に招かれたのは博多の豪商であり茶人でもある島井宗室と神屋宗湛であり、堺の豪商であり名立たる茶人でもあった今井宗久、津田宗及、千利休は呼ばれていません。特に信長が鉄砲と弾薬の調達に際して、初期に頼ったのは今井宗久であり、その今井宗久でも呼ばれなかったのは異常です。しかも、今井宗久、津田宗及、千利休は明智光秀とは親しく、光秀の催す茶会には必ず招かれていました。

「本能寺の変」の背後には諸々の思惑が渦巻いていたようです。特に堺の豪商は信長への鉄砲と弾薬の供給権を取り戻したいと考えていたはずで、ルイス・フロイス、南蛮寺、本能寺の供給ルートを断ち切りたいと望んでいたでありましょう。

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  際どいところで難を逃れた近衛前久は、まだ暗い内に起こされ、本能寺の方向の空が赤々と燃えるのを見て首を擦りました。

「しかしながら、まさか、まさか、惟任日向殿が。何故であろうか」と、空を見上げて震える者達に問いましたが、誰も答えることはできませんでした。


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