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松陰先生言行録(5) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                             By N.Hori

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 松陰は22歳の時に突如脱藩した。熊本の宮部鼎蔵や南部の江幡五郎と一緒に東北を偵察旅行へ出ることになり、藩に申請して許可が得られた。旅費は、兄が吉田家の俸禄を貯蓄したものを取り寄せた。しかし、関所手形を準備することを忘れていた。藩侯が特別に急に帰国してしまい、藩侯の捺印が必要な手形を発行するには、2か月掛かると言われたので、2人と約束した日に出発するために、たかが仲間との約束のために、藩命に従わぬばかりか、脱藩してしまった。

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日本人の倫理は忠孝をやかましく言うが、友情や友誼についてはさほど言わない。しかし、松陰は「われ酒食を喜まず、ただ朋友をもって命となす」と後に語っている。

武士にとって、主君を捨てるということで、脱藩ほどの大罪はない。当然ながら罪科は当人だけでなく、父兄や一族にも罪が及ぶ。幕末の騒乱期には、脱藩が流行したが、この時はまだ秩序が守られていた時期である。

松陰は予定の前日に出発した。前日に出発したのは、追手のかかることを警戒したためであった。

宮部と江幡とは水戸の宿で落ちあおう、と言っておいた。水戸に、1か月ばかり滞留した。

謹慎中の藤田東湖には会えなかったが、会沢正志斎には何度か会い、歴史を研究することの大切さを教えられた。歴史に大義名分を求め、皇室の尊崇を説く水戸学の学風に大きな影響を受けた。

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 水戸を出た後、会津、新潟、佐渡に渡り新潟に戻り、秋田、弘前から津軽半島の北端の竜飛岬まで行き、国防上重要な北海道を望んだ。青森に戻り、南下し、盛岡、仙台、米沢を歴遊し、4月5日に江戸に帰った。翌日、藩邸から藩吏がやってきて、帰藩を勧めたので従ったが、“売られて”「帰国して、沙汰を待て」という藩命が下った。

 5月12日に帰国後、松陰は謹慎しながら、水戸で啓発された日本史の多くの書を読んだ。

この時期、長州藩は、松陰に好意的であった改革(正義)派の村田清風から俗論派の坪井九右衛門に代っていたので、約半年後、結局、士籍剥奪、家禄没収という想像したよりも重い罰が下った。

その上で、実父百合の助の「育み(はぐくみ)」とすることを申し渡された。「育み」とは、禄も扶持も身分もないが、侍の姿をして、他藩の者に長州藩士だと名乗ることはできる。さらに、実父から「向こう10年、諸国で修業させたい」という願書を出させた。藩の法規は法規として、何とかして松陰の身を立つようにしてやろう、という藩主の温情が目に見えるようである。

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 松陰が10年の遊歴に出るべく、萩城下を旅立ったのは嘉永6年(1853年)正月26日、24歳の時である。ちなみに、これから5か月後にペリーが浦賀に来航した。

 まず、河内(大阪)から大和(奈良・五条) に向かい、東北旅行を一緒にした江幡五郎の師、森田節斎を訪ねた。節斎は文章を独特の節を付けて朗々と読み、松陰を感動させた。松陰は後に松下村塾で、それまでの長州流に代えて、節斎流の節で本を読むことにした。

 五条から金剛山を越え、千早城址などを見た。その後、伊勢に向かい、さらに美濃へ行き、木曽街道を経て、中仙道を通って江戸に出た。江戸では、前回の脱藩時以来の定宿の鍛冶橋外(桶町)の鳥山新三郎(房州の農民あがりの学者)宅に5月24日に入った。

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 翌日、13里の道を歩いて鎌倉の瑞泉寺に母方の伯父の竹院和尚を訪ねた。母から「おまえ、江戸に着いたら鎌倉の伯父さんにきび粉を持って行っておくれ。あの人はなによりも長州のきび団子がお好きだから」とことづかっていた。重いきび粉の袋を風呂敷にくるんで長い道中を背負ってきた。こういう点でこの書生は愚直であった。

 竹院は、松陰の身の上のことは寺に来た長州藩士からくわしく聞いていた。「心境はどうだ」と聞かれて「いまは良かったと思います」、「なぜ良かった?」、「山鹿流兵学がいやになってきたのです、山鹿流では洋夷の軍事力を防ぐことができません」、「ところが、藩にいる限り、山鹿流をきわめてゆかねばならず、これはどうにもなりませぬ」、「飛躍するのか」、「したいと思います」、「そのためには放逐されたことは天の配剤であったというのだな。思う通りにやることだ」、、、と竹院は禅僧らしく、さらさらと言ったが、秀才の甥が考えていることにどうやら危険のにおいがするのだが、正体がわからない。地理と歴史に興味のある松陰は、5月末まで、鎌倉の名称や史跡を回って遊んだ。


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コメント 2

hanamura

生物学での突然変異体(ミュータント, mutant)なのかな?
by hanamura (2011-05-03 13:33) 

ぼくあずさ

私が子供の頃、母からよく話を聴かされていた曾祖母が嘉永二年生まれですから、松陰が生きた時代はさほど昔ではないことに気づきました。破天荒に思える彼の実行力は、萩の地と幕末という時代が生んだものでしょうか。

by ぼくあずさ (2011-05-03 14:23) 

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