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松陰先生言行録(4) [明治維新胎動の地、萩]

                                                                             By N.Hori

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松陰は、新春を杉家で過ごしたが、松の内が明けるのを待って、江戸行きを藩庁に嘆願した。これは松陰にとって幸福かどうか、藩の重臣たちはたれもがこの若者に甘かった。「文武修業のため」という目的なら、皆が親身に考えてくれ、松陰は生涯、藩に甘ったれであった。

殿様が参勤交代で3月に江戸に行く。そのお供ということで、便宜がはかられた。ついでに、藩庁は、松陰を含めて、16人の大量の江戸留学生(学問、武術)を選び、お供させることにした。

萩を出て、35日目の4月9日、六郷(多摩)川を渡った。長州藩の江戸邸は、江戸城の郭内の桜田門を入ったところにあり、手狭であった。松陰は9日間部屋割りを決めてもらえず、落ち着いて読書が出来ないのが困った。

留学生の滞留費は藩費ということで、往復の旅費、宿泊所の提供、1日当たり4合1勺の米の支給があった。米の量は、副食物の少ない時代なので多くはない。米は生米で頂き、台所で炊いてくれるが、副食物は自弁で、出入りの商人に届けさせる。松陰は節倹を信条にして、「お国の金銭をお国で消費するならまだしも、江戸で使うことは藩経済の上からも望ましくない」考えで、外食をせずに、毎食の副食物は、金山寺のなめ味噌と梅ぼしだけだったが、式日だけは鰹節を削ったのに醤油をかけて食べた。

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 節約はこの時代の一般的徳目なのだが、松陰は「武士というものは殿様より知行を頂き、百姓どもに養われているものである」という明快な彼流の規定を持って、「養われる者であればこそ、君恩と国恩に報いなければならない」と割り切っている。

 この時代、塾に行くといっても、師匠の講義は月に1度か2度で、それもわずかの時間でしかない。あとは、塾生同士がテキストを解読したり、輪講しあったり、討論したりして、互いが磨き合う制度を「会講」という。松陰は欲張って沢山の師匠についたので、会講が月に30回ほどあり、忙しかった。その間に、藩邸内の「有備館」で剣術や馬術の稽古もする。

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 松陰は、師といえども自分の思想に適わなければ、儒教的な服従精神はなく、師を選択し、容赦なく捨てた。しかし、その人物や識見を敬慕した時、師が成立する。佐久間象山の場合がそうであった。松陰は、象山に入門した。象山は風采に厳しく、汗をかき、髪が乱れていたのが気に入らず、出直しを命じた。松陰はやむなくいったん帰り、顔を洗い、髪をとき、元結を新たにして入門の礼をとった。

 江戸における最大の収穫は師よりも、藩内外に多くの友人を得たことだった。

江戸は他藩の逸材を知るための町である。松陰は、そのような親友から、「いつ見ても心を弾ませ、胸中どういう愉快なことがあるのか。不平というものがまったくない。ちょうど家に新婦を迎えようとしてそわそわしている新郎のような男だ」と印象されたらしい。

 奇妙なことに、後にあれほどの感化と影響力を後輩に与えた松陰が、同輩に対して、何の影響を与えず、尊敬も得ていないことである。同輩の関係というものの難しさがそのあたりにあるだろう。


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