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創作短編(16):水戸黄門と生類憐れみの令 -1/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                          2011-03 WME36 梅邑貫

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時      :貞享四年(1687年)の頃

場所    :水戸と常陸国大能(現高萩市)

登場人物:水戸光圀他

参考文献:「江戸時代館」(200212月、小学館刊)

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 世上、水戸黄門として親しまれる水戸藩主にして天下の副将軍たる水戸光圀でありますが、黄門とは中国古代の官制称号であり、禁門が黄色く塗られていたことから、黄門とか黄門侍郎と呼ばれ、我が国では中納言、或いは権中納言を指し、これに従えば黄門は水戸藩だけでも六名か七名が存在したことになります。

 この物語は水戸藩第二代藩主水戸光國、後に改名して光圀の世に余り知られていない事実を掘り起こしています。

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 梅が小さな蕾を着け始めた貞享(ジョウキョウ)四年(1687年)の二月末、水戸城二の丸の書院に篭って膨大な書に目を通していた光圀が外から馴染みのある声で呼ばれたのに気着いた。

「殿」

「ああ、澹泊(タンパク)か。遠慮は要らぬ。入ってもよいぞ」

 安積(アサカ)澹泊、通称は覚兵衛であり、まだ二十四歳だが光圀によく仕え、諸国の事情を調べるのにも、遠路を嫌がらずに出掛けてくれる。世間では「覚さん」と呼ばれているらしいが、光圀は本人が呼ばれたいと望んでいる名で呼んだ。

光圀はこのとき六十二歳であり、澹泊は我が子よりも若く、まだ名を付けていないが、後に「大日本史」として完成する歴史書の編纂を始めたのが明暦三年(1657年)、光圀三十歳のときであり、今は六十二歳、諸国を歩くのは辛い。その光圀の体力を補ってくれるのが澹泊や他の若者達だ。光圀は普段は江戸小石川の藩邸に詰めており、安積澹泊も常に光圀の側を離れないが、たまたま今は主従共に水戸の城へ戻っていた。

光圀は将軍の補佐役として江戸の藩邸を離れることが滅多にできず、後世に語られる話では供を連れて諸国を漫遊しており、これは創り話です。


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コメント 1

hanamura

現在も…その昔も…お殿様に、お仕えするのは大変です!
澹泊?覚さん?角サン?偉いなぁ~…つくづくホント!
by hanamura (2011-04-20 21:38) 

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