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創作短編(15):火附盗賊改 -6/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                         2011-03 WME36 梅邑貫

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 中山勘解由の時代から百年が経過した天明七年(1787年)、火附改と盗賊改が既に統合された火附盗賊改役に長谷川平蔵が就いた。

 その前年、長谷川平蔵は幕府先手組の弓頭に就いているが、火附盗賊改役は加役、即ち兼務であった。

 長谷川平蔵が火附盗賊改役としてその存在を世間に認めさせたのは、その頃、常陸、陸奥、上総、下総、下野、武蔵の各地を押し込み強盗で荒らし廻っていた真刀徳次郎(シントウ・トクジロウ)一味を捕らえたことである。この盗賊団は幕府御用を装う服装で関所を抜けていたが、寛政元年(1789年)六月、長谷川平蔵が率いる火附盗賊改に大宮宿で一網打尽に捕らえられ、その場で獄門に処せられ、長谷川平蔵の存在と勇名を世間に知らしめた。

 さらに、寛政三年(1791年)五月、長谷川平蔵は凶悪強盗の葵小僧(アオイ・コゾウ)を捕らえた。

 葵小僧は別名大松五郎とも呼ばれたが、本名は桐野谷芳之助で、美濃生まれの役者だった。徳川家の葵の紋を描いた提灯を下げて豪商を襲い、金品を奪うだけでなく、婦女を犯した。

 長谷川平蔵は板橋宿で葵小僧一味を捕らえ、二十人ほどの手下を火附盗賊改の七名で斬って捨て、葵小僧だけを捕らえた。しかし、白状させると被害を受けた婦女の名が明るみ出ることから、今で言う供述をさせることなく獄門に処した。

 芳之助は、役者だった父親を見習って同じ道を歩んだが、伝えられるところでは、極端に鼻が低く、このために女にもてない役者だったようで、それを怨みとする婦女暴行の常習犯でもあり、今で言う偏執者であったとも想像される。

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 平蔵は幼名を銕三郎(テツサブロウ)と言い、鉄砲州で育つが、叔父の養子に出されたり、再び実家へ戻ったり、複雑な子供時代を過ごすが、武芸だけは頗る優れていた。平蔵十九歳のとき、長谷川家は本所三つ目(現在の菊川)へ移り、「本所の銕」、「本所の悪」、「名うての札付き」とかの悪名が広まった。その平蔵が後に火附盗賊改役として世の悪と闘って名を残すことになる。


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hanamura

講談やTV時代劇の場面が浮かびます…鬼平犯科帳だったら、
先代猫八師匠の「テツさん…あっしゃぁねぇ…」なんて…
by hanamura (2011-04-09 12:02) 

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