創作短編(15):火附盗賊改 -3/8 [稲門機械屋倶楽部]
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天和三年(1685年)、火附改が創設されて旗本の中山直房が任ぜられるが、同じ日に父親の中山直守が盗賊改役に就いた。この中山父子のどちらかが中山勘解由(カゲユ)と呼ばれたが、私の調査不足で父と息子のどちらが「勘解由」であったか定かではない。父子双方が「勘解由」を称したとも考えられるが、ともあれ「鬼勘解由」と言って怖がられた。
長谷川平蔵も「鬼平」と言われて怖がられたが、それは幕府先手組の供える武力、即ち、腕っ節の強さ、それに荒っぽさに由来している。
中山勘解由父子が盗賊改と火附改に任ぜられて直ぐに、老中であり武蔵忍藩主の阿部美作守正武に呼び出された。盗賊改と火附改は若年寄の差配下に在るから、その上の老中から呼び出されることはない。
怪訝な思いを隠せずに平伏する中山勘解由父子に老中の安部正武が厳しい面持で語り掛けた。
「中山丹後守、近頃、江戸の街々に出没しおる火附けと盗賊がおるが、知りおりましょうな」
父親の中山直守が、背後に息子の中山直房を控えさせて答えた。
「はっ。鶉権兵衛(ウズラ・ゴンベエ)なる盗賊の一味と聞き及びまする」
「左様。その鶉権兵衛なる輩、二十名とか三十名で荒らし廻り、先ず火を附け、その火を見て人が騒ぎおる間に盗みを働きおる」
「はっ。まことに非道な輩でござりまする」.
老中阿部正武はまだ三十三歳で、一年前に老中に就いたばかりであるが、八万石の大名であり、幕府の背後を固める忍藩の藩主である。中山直守はこのとき五十歳、丹後守に叙任され四千石の知行を持つ大身の旗本であり、嫡男の直房も二十六歳で一人前である。しかし、大名の老中と旗本とでは越えられぬ格の違いがある。如何に若い老中であっても、旗本の中山父子は畏まって平伏したままで次の言葉を待った。
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