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創作短編(15):火附盗賊改 -2/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                                          2011-03 WME36 梅邑貫

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 寛文五年(1665年)に盗賊改が創設された折りの初代指揮官、即ち盗賊改役は先手組頭水野小左衛門守正であった

以後、火附盗賊改役が二人の時代も在ったが、一人は目付が兼任しており、実動隊の長は御先手組と呼ばれる組織の組頭が就任している。

先手(サキテ)組とは戦いの際に真っ先に戦場へ跳び込む先鋒隊であって、泰平の世が続いた江戸時代でも、常に武術の訓練を怠らず、その荒っぽさ故に江戸の町民からは怖れられた。

火附盗賊改はよく町奉行と比較されて、いわゆる二重行政との指摘もあるが、町奉行はあくまでも文官(役方)組織であり、火附盗賊改は武官(番方)組織で、現代流に言えば警察と軍隊の如く、厳然たる違いがあった。

町奉行は犯罪人と向い合っても、十手と捕縄で生きたまま捕らえたが、火附盗賊改は容赦なく斬りつけ、拷問と処刑に手加減がなかった。

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江戸時代も時代が下がるに従って世の中は平和になり、幕府親衛隊である旗本の出番がなくなって来た。一口に旗本の数は八万騎と言うが、実際には旗本が五千余から七千ほど、その下に位置する御家人が一万二千とか一万三千で、併せて二万人ほどあった。尚、与力と同心の言葉をよく聞くが、与力は騎乗を許された武士で、今流に言えば将校であって、これを旗本と言い、将軍に拝謁できるお目見えとも言う。旗本を数えるときには「騎」を遣い、旗本百騎と言えば、旗本百人のことである。一方、同心は御家人とも言い、武士ではあるが、将軍にお目見えできず、騎乗も許されていなかった。

二万人の平和で暇な武士達が為すところなくうろうろしていれば、中にはよからぬことを仕出かす者も現れる。火附盗賊改はそもそもはこのような犯罪に走った武士を取り締まるのが目的で、町奉行との間に明らかな一線が劃されていたが、その戦闘力が買われて、町奉行では手に負えない凶悪犯を捕らえるために出動する機会が次第に増えた。


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ぼくあずさ

興味深く拝読しました。江戸の生活の一面が、なんとなく
見えて来ました。
by ぼくあずさ (2011-04-06 07:58) 

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