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創作短編(14): 縁切り寺 -4/7 [稲門機械屋倶楽部]

                                       2011-03 WME36 梅邑貫

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 志乃の夫で、浮気の果てに若いお針子を連れて新たな所帯を構えてしまった利平には、本来ならば呼状(ヨビジョウ)を発して上野國新田荘の満徳寺まで出頭させる。

 鈴木小兵衛は将軍には拝謁できないお目見え以下の身分だが、威厳ある寺社奉行の配下に在り、寺社奉行の名で出される呼状は絶対の権威を持つ。

その上に満徳寺の権威も重く載る。満徳寺はその成り立ちに不詳の部分が残るが、新田義重の子で鎌倉時代の世良田儀季まで遡り、その娘の浄念が開いたと伝えられる。

その後、新田一族と共に盛衰を余儀なくされるが、徳川家康は豊臣秀頼の妻であった孫の千姫を満徳寺に入れて豊臣との縁を切り、配下の武将本多忠刻(タダトキ)に再嫁させた。千姫は徳川二代将軍秀忠を父とし、母は継室の於江である。これ以来、満徳寺は縁切り寺となるが、さらに天正十九年(1591年)、徳川家康が朱印百石を与えて再興し、徳川将軍家の位牌を祀る寺となった。

しかし、縁切り寺役人の役目は離縁したくて跳び込んで来る女房達に離別状を整えてやることだけではない。満徳寺は朱印領を与えられているので、そこから小作料を徴収するが、それも鈴木小兵衛達の役目であり、寺の運営も、尼僧は一切関与せず、縁切り寺役人に重要な役目である。

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鈴木小兵衛は近々江戸へ出府して寺社奉行の指示を仰ぐ用向きを抱えていたので、その折に志乃の一件を片付けようと考えた。

それに鎌倉の東慶寺へ派遣されている同じ縁切り寺役人との打ち合わせもある。鎌倉の東慶寺は鎌倉の八代執権北条時宗の正室であった覚山尼(1252-1306)によって開山され、豊臣秀頼の娘であり、家康の外孫でもある天秀尼が二十世住持にもなっており、縁切寺法で手厚く保護されている。

 若い未婚の娘は闊達に江戸の世を楽しんでいるが、一度でも所帯を持ってしまうと、最早自由はない。不孝に見舞われた女房達を救うために、鈴木小兵衛はこれから江戸へ向う。


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