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創作短編(10): 町火消「いろは四十八組」 -5/7 [稲門機械屋倶楽部]

                             2011-01-30 梅邑 貫

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  南町奉行大岡越前守忠相は町火消しをさらに機能化して、特異な職業集団とすれば、もっと少ない人数でも十分に目的が果たせるはずだと考えた

 祐筆に書かせた「いろは歌」の四十七文字が擦れて破れるほど幾度も指先で数え、一方で江戸の町々を描いた切り絵図を睨み、大川の西側だけなら四十八の町火消しで火事を消すことができると決断した。

 享保五年(1720年)、大岡忠相は今までの一町十五人制町火消しを廃して、新たに町火消し四十八組の制度に替えた。

 町火消し「四十八組」は「いろは歌」の順に、「い組」、「ろ組」、「は組」と続くが、「へ」と「ら」は火事場の喧騒の最中では「え」と「た」に聞間違い易く、これを「百」組、「千」組とし、又、「ひ」は江戸っ子が「し」と混同するので、「万」組とした。

 さらに、「いろは歌」は四十七文字には「ん」がないので、「本」組を加えて四十八組を編成した。

 江戸の町火消「いろは」四十八組は、かくして南町奉行大岡越前守忠相によって設けられ、江戸の華と言われる火事に「いろは」四十八文字を配した纏を掲げて馳せ参じ、消火に努め、若者羨望の的となった。

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 大岡忠相は延宝五年(1677年)、千七百石の旗本大岡美濃守忠高の四男として生まれ、十歳のときに同族で千九百二十石の大岡忠真の養子となった。

 大岡忠相は南町奉行を十九年に及んで務めるが、その間に二千石の加増を受け、さらに寺社奉行に転じた元文十年(1748年)には再度の二千石加増を受けて、五千九百二十石となるが、寺社奉行と兼務した奏番者に与えられる役高四千八十石を加えると一万石を越えた。

 一万石以上は大名であるから、大岡忠相は三河国西大平藩(現在の愛知県岡崎市)を受領して藩主になった。旗本から大名に昇ったのは江戸時代を通じて大岡忠相のみである。


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ぼくあずさ

私は旧瀧野川区生まれですから、家に出入りする
鳶は、確か四区四番だと記憶しています。
正月には半纏を着た親方が挨拶に来ました。
木遣り&梯子乗りは久しく御目にかかりません。
by ぼくあずさ (2011-02-05 08:24) 

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