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創作短篇(9): 初の偽造外交文書 -1/6 [稲門機械屋倶楽部]

                                         2011-01-18 WME36 梅邑貫

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時: :      慶應元年(1865)九月 

場所:    大阪城内と天保山

登場人物:山口駿河守五郎次郎直毅

御礼:    旗本山口駿河守については、幕末の喧騒に紛れて詳しいことが判らなかったですが、敬友にして江戸学の権威である藤澤篤尚氏にお調べいただき、ようやくこの一篇を著すことが出来ました。御礼を申し上げます。

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 慶應元年九月、大阪城内の御用部屋で山口駿河守は焦り落ち着かない気持ちを懸命に抑え続けた。この年の四月二十八日に外国奉行に取り立てられたが、「まことに気苦労の多きことよ」と歎きながらも、それを声に出すことは出来なかった。

一年前の元治元年(1864年)八月五日、英仏蘭米の四ヶ国艦隊の軍艦十七隻が長州藩を襲って、長州自慢の沿岸砲を破壊し、その兵に上陸されてしまった。

 長州は大騒ぎになっていたが、この自分はその八月七日に目付に再登用された。思い返せば、安政七年(1860年)十二月に目付を仰せ付かり、文久三年(1863年)七月にも目付を再度拝命し、その間は箱館表御用役、講武所教授方、騎兵奉行、神奈川奉行と歴任しているが、鎗(ヤリ)奉行林内蔵助の子に生まれ、安政四年(1857年)、二十四歳のときに二千五百石の旗本で新番頭の山口勘兵衛の養子となり、あれから五年、大過なく役目を果たして来たが、この外国奉行はいささか勝手が違った。山口駿河守自身の判断ではどうにもならぬことが多く、自ら決断出来ぬことも多く、良くないことと思いながらも落ち着きを失いそうになるのだ。

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「京からは未だ何も言って来ぬか」と、側の者に尋ねてしまったが、先程から、いや、この数日の間、同じことを幾度尋ねたことか。

初めの内は、「京からは何も届いておりませぬ」と、その都度答えていた者達も今は声を出さぬまま首を左右に振るだけになってしまった。京と言うのは、京都に滞在中の一橋慶喜のことである。


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