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創作短編(7): 父も倅も単丸 -1/4 [稲門機械屋倶楽部]

                                2010-12-29 梅邑 貫 

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時      弘化元年(1844年)頃

場所    本所亀沢町(現在の両国駅の辺り)

登場人物 勝小吉と勝海舟

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「氣ハなかくいろうすくつとめハはかたく身をハもつへし。外に、たヽまなべゆふへになろふみちのへの露のいのちのあすきゆるとも」

(気は長く、心は広く、色薄く、勤めは堅く、身をば持つべし。

 他に、ただ学べ、夕べに習ろう道の辺の露の命の明日消ゆるとも)

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「俺ほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいと思う故に、孫や曾孫の為に話し聞かせるが、能々(ヨクヨク)不法者馬鹿者の誡めにするがいいぜ。俺は妾の子で、母親が親父の怒りに触れていたのでお袋の内(ウチ:家のこと)で生まれた。夫(ソレ)を本とふのお袋が引き取って、乳母で育ててくれた。餓鬼の時分より悪さ計(バカ)りして、お袋も困った。夫(ソレ)に、親父が日勤の勤め故に家にいないから、毎日々々我儘計り言うて強情故、皆がもてあつかったと、用人の利平次と言う爺が話した。そのときは深川の油堀と言うところにいたが、庭に汐入の池が有て夏は毎日々々池にばかり這入っていた。八ッには親父が御役所より帰るから其の前に池から上がり知らぬ顔で遊んでいた。いつも親父が、池の濁りているを利平ぢゞに訊かれると挨拶に困ったそうだ。お袋は中風と言う病いで起ち居が自由にならぬ。あとはみんな女計りだから馬鹿にして、悪戯のしたいだけして日を送った。兄貴は別宅していたから、何も知らなんだ」

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 この文は勝小吉が42歳の時に、やっと習い覚えた文字で自ら書いた「夢酔独言」の一節です。

 勝小吉は本名を勝左衛門太郎惟寅と言い、勝海舟の父親です。小吉は享和二年一月十五日(1802217日)、旗本男谷平蔵の三男として生まれますが、上記の「夢酔独言」で自ら言っているとおり、妾の子であったために、7歳のときに僅か四〇石取りの旗本である勝家へ養子に出されます。幼名は亀松と言い、通称が小吉、隠居してからは夢酔と名乗りました。没したのは嘉永三年九月四日(1850109日)、48歳のときですが、若い頃から放蕩と暴れん坊で知られており、長男の麟太郎、後の勝海舟が生まれた文政六年(1823年)には、小吉は実家である男谷家の庭に建てた座敷牢に閉じ込められていました。

 暴れん坊旗本勝小吉は生涯無役の小普請組でしたが、倅の勝麟太郎は安房守の冠位を授ずけられて末期の幕府を一身に支え、娘の順子は高名な蘭学者佐久間象山に嫁ぎました。


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