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創作短編(6):権力は手放す莫れ -1/4 [稲門機械屋倶楽部]

                           2010-12-21 WME36 梅邑貫

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時:        明治18年(1885年)12月、内閣制度発足とその直後

場所:    東京品川の伊藤博文私邸

登場人物:伊藤博文とその他多数

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  明治十八年十二月二十二日、我が国初の内閣である伊藤博文内閣が発足した。伊藤博文(44歳)はこの年の明治十八年に続いて、明治二十五年、明治三十一年、明治三十三年と四回の内閣を作っているので、後年、明治十八年の内閣を伊藤博文第一次内閣と呼ぶ。

 師走の忙しいときに内閣を作ることになったが、明治維新以来続いた太政官制が廃止され、内閣制が制定されたからだ。新たにできる政府の首班は太政大臣として維新後の混乱を収めた公卿であり、天皇の側近でもある三條實美(サンジョウ・サネトミ:48歳)であろうと誰もが考えた。

 初代の内閣総理大臣を誰にするかとの議論の最中に、伊藤博文の盟友である井上聞多、後の井上馨(50歳)が「これからの総理大臣は外国から来る英語の電報が読めなくては務まらない」と主張し、これに山縣有朋(47歳)が強く賛同し、他の者も尤もなことと考え、英国に留学した伊藤博文が初代の内閣総理大臣に選ばれた。

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 初の組閣とその内閣の誕生で忙しいことこの上ない師走を越し、新年になってようやく喧騒の巷から逃れるように私邸に落ち着いた伊藤博文を山田顕義(41歳)が訪ねて来た。

「市之允(イチノジョウ)ではないか」

「閣下、例の件でありますが」

「閣下は止めて、俊輔と呼んでくれ。俺とお前の仲ではないか」

山田顕義は萩の生まれで、幼名を市之允と言い、伊藤博文は俊輔とか春輔と呼ばれ、伊藤博文の方が数年早いが吉田松陰の松下村塾に学んだ仲である。第一次伊藤博文内閣の組閣に際して、伊藤博文は共に尊皇攘夷に挺身し、若い頃から気心の知れた山田顕義を司法大臣に任じた。地味な地位ではあるが、伊藤博文には自分の過去を暴かれたくはない事情もあり、そのときには山田顕義が楯になってくれるとの思惑もあったからだ。


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