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創作短編(5):堀織部正利熙、樺太を捨て置きにせず -3/3 [稲門機械屋倶楽部]

                           2010-12-18 WME36 梅邑貫

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 声が届き難いほどの距離を保って平伏する村垣範正と堀利煕に阿部正弘は手招きして、「よう参られた」と声を掛けながら、腕を延ばせば相手の肩に触れられるほどに近くへ呼び、「淡路守と織部正殿、蝦夷地、いや、奥蝦夷の地へ参り、詳しゅう調べて欲しいのだが」と言って、阿部正弘は松前藩主が訴えた樺太の現状を伝え、直ちに踏査するよう命じた。

踏査の主たる着眼点を何処に置くべきかとの二人からの問いに阿部正弘は次のように答え、その主旨に沿って踏査するよう重ねて命じた。

 「奥蝦夷の南半分、これ我等が日本の領土でござる。これは清国も夙に認めておること。従い、露西亜船が北半分の何処かへ着きおるなら、申すべきことは何もござらぬ。先ず、船の着きし所と兵を揚げたる場所を調べ、又、和人と露西亜人、さらにどちらにも属せざる先住の者達が如何様に住みおるか。松前殿は松前のみにては防げぬと申しておられる故、その通りなれば、奥蝦夷は松前藩より幕府領とし、防備に力を入れねばならん」

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 嘉永六年六月二十二日、将軍家慶が歿し、家定がその跡を継いで十三代将軍となったが、年が明けて嘉永七年一月十四日、米利堅のペリーが再び来航し、浦賀沖を過ぎて金沢小柴沖まで入って来た。一年前の六月に浦賀へ現われ、「明年、再び参る」と言って去ったが、まさかその明年の松の内に来るとは予想もしていなかった。ペリーとは日米和親条約を三月三日に結んだが、世の中は何やら騒然としたままであった。

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老中首座からの直接の下命とは言え、そのような騒がしい世情に煩わせられることもなく、村垣範正と堀利煕の動きは早く、三月には蝦夷へ向かって江戸を発ち、奥蝦夷の各地を長期間に及んで踏破して、十月に江戸へ戻って復命した。

特に堀利煕は、蝦夷本地(北海道)が露西亜に蚕食されぬよう防備に努め、奥蝦夷(樺太)は現に大勢の和人が商いや漁のために留まっていることを北緯50度近くまで踏査して確かめ、取り敢えずは和露混住の地とするものの、南半分の北限に和人の領域であることの証として八幡神社を建立せよと現地の者達に勧め、又、江戸へ戻っても奏上した。

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後に村垣範正は箱館奉行に任じられ、さらには遣米使節団の副使として米利堅の地を踏むことになる。

 堀利煕は後に外国奉行や神奈川奉行となって諸外国との折衝に意を尽し、横浜開港の協約書にも堀利煕の署名が見られるが、プロイセンの外交官オイレンブルグとの条約交渉で、プロイセンのみならずオーストリアとの折衝も密かに進めていたとの風聞が流され、神奈川奉行を罷免された後、万延元年(1860年)十一月六日、自刀した。享年四十二歳。堀利煕が著した「御國疆境見込之場所」(国境予定地)は今も函館市に残る。   

                                                                               (了)


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takechan

nice!とコメント、ありがとうございます。
by takechan (2010-12-19 22:15) 

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