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創作短編(5):堀織部正利熙、樺太を捨て置きにせず -2/3 [稲門機械屋倶楽部]

                                                            2010-12-18 WME36 梅邑貫

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 ペリーもプチャーチンも去って、やっと落ち着きを取り戻して間もなく、松前藩より幕府へ急報が届いた。松前は、その昔は武田の流れを汲む領地であったが、その後は秀吉に臣従し、家康からも松前を安堵されており、松前氏は柳の間に詰める一万石の大名である。だが、蝦夷の地は米ができないので石高は名目だけで、鰊と昆布の商いで栄えている。

 老中首座阿部正弘は、まだ若いが松前藩十二代藩主を五年ほど前に継いだ松前伊豆守崇弘(25歳)の言に耳を傾けた。

「国許より急使が参り、奥蝦夷に露西亜の船が現われ、兵を陸に揚げた由にござりまする」

「奥蝦夷と申すと、蝦夷の北、北蝦夷とも申し、アイヌのみの地でござろうか」

「樺太とも称しまする南北に長い島で、和人も大勢住みおり、露西亜の民と混ざって漁やら商いに精を出しおりまする」

「うん。それで、松前殿、如何せよと申されるか」

「吾等、松前の兵のみでは、到底防げませぬ。ここは如何にしても幕府の手で露西亜の兵を奥蝦夷より追い出していただきとうございます」

「是非もないこと。承知仕った」

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 老中首座の御用部屋から松前藩主が退出した後、阿部正弘は熟考した。この機を捉えて露西亜は何かを謀ったのか。プチャーチンは円満に去ったはずだが、長崎と奥蝦夷で日本を挟み撃ちにしようと謀り、北方の船に連絡が出来ぬままプチャーチンは去り、軍艦か商船かは判らぬが、蝦夷地の近くを徘徊していた船だけが着岸して兵を揚げたのか。

 阿部伊勢守正弘は備後福山藩の七代藩主であるが、先代藩主の兄が病弱のために早く隠居するので、正弘は十七歳のときにその兄の養子になって跡を継いだ。福山へ戻ったのは藩主になったときだけであった。

江戸で生まれて江戸で育った阿部正弘は江戸の事情に通じているだけでなく、25歳で老中になってから長く幕閣の中枢におり、幕府を支える実力派の者達をよく知っており、老中として彼等を次々と登用し続けていた。

奥蝦夷に露西亜兵が上陸したとの一報に接して、老中首座阿部伊勢守はこの難題の解決を誰に任せるべきかと考えた。浦賀へ現れた米利堅のペリーと長崎へ来航した露西亜のプチャーチンとの折衝で有能の士は出払った感があるが、それでも直ぐに思い当たる人物が浮び、側の者に呼びに行かせた。

程なく、勘定吟味役の村垣淡路守範正(40歳)と目付を勤める堀織部正利煕(35歳)が現われた。二人は共に旗本で、藩主にして大名たる阿部正弘とは身分に大きな違いがあるが、その鋭利な判断力と身体を運ぶことを厭わぬ実行力をかねがね高く評価していた。


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