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中国王朝衰亡外史 -3 [稲門機械屋倶楽部]

                 2010-09-24 WME36 村尾鐵男

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前漢の衰亡

楚の項羽が秦を倒し、その項羽を劉邦が倒して前漢王朝が開かれました。日本では前漢、後漢と区分しますが、中国では長安を都とした前漢を西漢と呼び、東の洛陽を都とした後漢を東漢と呼びます。前漢と後漢との間には連続性があり、前後に分けるのが難しいのですが、家臣の王莽によって政権が簒奪された時期を以て前漢の終わりとするのが定説です。

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前漢の時代には儒教を国教とする統治が行われ、農業生産の拡大を行い、一方では奴婢を禁じて大きく改革が進められて国力が増進しました。ところが、今日もそうですが、改革と経済成長が続くと貧富の差が生じ、儒家の反発を招き、一方で富の再配分を試みると、大きく育った商人達の反発も誘発しました。そのため、前漢の国内では小さな反乱や騒擾が絶えることがなく、加えて代を重ねた王室内での確執が続き、遂には家臣団最高位の王莽によって政権が簒奪されました。

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後漢の衰亡

紀元220年、三国志の雄である魏の曹操の息子曹丕(ソウヒ)、が後漢最後の皇帝である献帝から禅譲を受け、魏王朝を建てたことで後漢は消滅しました。

後漢時代のほぼ200年間の内、後半は在っても無きが如きで、いつ倒れても不思議ではない状態が続くのですが、世は三国志に描かれるような戦乱時代であり、後漢の皇帝から禅譲を受けた者が覇者となることから、皮肉なことですが、後漢の王朝は次の王朝の正統性を求めんがために温存された感があります。

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余談ですが、後漢最後の皇帝献帝が曹丕によって殺されたとの誤った情報を受けたのが蜀の劉備で、劉備はその情報を信じて直ちに皇帝に即位しますが、ここからが三国志の時代に突入します。

後漢時代を通じて、特にその後半では政治の腐敗が極めて顕著でありました。特に、官僚の地位が金銭で買われたことです。上位の者に贈賄することにより、その額の多寡によって望みの地位に就くことができて、その金銭は農民や商人から搾取、或いは詐取することで賄われました。能力を欠き、実務訓練も受けていない者が行政の高い地位に就いたために、政治も乱れ、その結果として経済は混乱疲弊し、たとえば、前漢末の頃に5000万を越えていた中国の人口が、200年後の後漢時代には2100万に減少したと伝えられております。

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さらに驚くのは、後漢時代には生後百日で即位した皇帝が存在したことで、これは皇帝が幼ければ幼いほど、その母親とか側近が恣意的に政治を行うことができるからで、後漢は王朝としての存在価値を失ったに等しいことでありました。後漢王朝を倒したのは魏の曹丕ではありますが、実態として、後漢王朝は内部の腐敗によって自滅しました。さらに、政治に不満を持つ大規模な黄巾の乱も後漢の自滅に拍車を掛けました。

(4)に続く


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袋田の住職

項羽と劉邦、劉備と曹操の攻防は実にドラマチックですね。
漢王朝の興亡にもさまざまに語られる歴史の重みがあります。
人口は今と比べるとはるかに少なかったんですね・・・
by 袋田の住職 (2010-09-26 16:35) 

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