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潮騒 [フリューレン村だより]

                                                .by ぼくあずさ .

私がフリューレン村に住んでいた197011月、三島由紀夫(1925-1970)の割腹自殺が地元紙に報じられた。毎週工場長宛に郵送していたTechnischer Bericht の第一頁に感想を書いた記憶がある。

さて昨夜、嵐の音で目が覚めた。此処数日来、夜中のブログ更新は止めている。それでも習慣から書斎のPCの前に座る。室温は22℃まで下がる。机に積んであった新潮文庫の潮騒を読み始める。いろいろ昔のことを想い出しながら。後半に読み進むと三島由紀夫の緻密な構成を再認識。夜中3時、島の中腹にある部落が共同管理する泉に水汲みに登って来た水当番の初江を手ごめにしようと待ち伏せしていた村の名家生れの安夫が蜂に刺される記述があるが、蜂は夜目が利くのだろうか。つまらぬことが気になる。

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19614月下旬から5月末まで阿倉川にある三重工場で新入社員実習があった。私は板金工場でプレスと電気冷蔵庫の熔接ラインで働いた。初めて受け入れた大卒実習生、大いに歓迎された。天気の良い日は一面の菜の花畑の中の捷経を抜けて伊勢湾に面した富田浜に出かけた。競輪場跡の背後の砂浜、石塁が半ば砂に埋まった処、其処だけ砂丘が波に洗われ抉られた先、丁度腰かけるに都合よい白い平らな石に座り穏やかな海原を眺めた。左から知多半島が続き、神島らしき小島も見える。日没は鈴鹿の峰々に沈む太陽が天空を深紅に染める光景はこの世のものとは思えないほど神々しかった。淡桃色の「さくら貝」ひとつ、今も青春の香を残す。http://www.youtube.com/watch?v=K_NcA9kz-6c.

確か1963年の5月の連休に設計の2人を誘って愛知県伊良湖岬の恋路ケ浜でキャンプ。朝、近くの農家で買い求めたキヌサヤの八丁味噌汁の味は忘れられない。潮の流れが急な海峡の対面に美しい神島がある。潮騒の舞台になった島(歌島)だ。当時は伊良湖からの船便はなく、やむなく篠島に渡り、そこで漁業組合長さんのしらす倉庫の2階で台風通過待ちをさせて貰った。

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1981年の秋、私の好物の的矢カキの産地と潮騒の神島を訪ねた。当時は鳥羽との間にしか定期船はなかった。

八代神社への急な石段、灯台の脇の急な小経を登り、アシタバが生える緩やかな頂き(170.9㍍)、太平洋に面した崖の上に監的哨があった。

小説に描写されたとおり1階中央部に焚き火跡があった。小さな島なので全島をくまなく歩いたが、島中腹の泉は見ずに定期船出港時刻を気にしながら港へ急いだ。

長年の念願かなっての島めぐり、頗る楽しい想い出になった。


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村尾鐵男

遠い昔を想い出させてくれました。
あの頃、新宿区市谷薬王寺町に住んでおり、今の防衛庁の斜め裏の場所です。三島由紀夫自決の日、帰宅すべく地下鉄四谷三丁目駅から自宅へ向かって歩いていたら、上空を小型ヘリコプターが乱舞しており、自衛隊の西門近くを通るときに、どこかのTV局の中継車が止まっていて、「三島由紀夫の壮絶な自決」と聞こえて来ました。
あらに遡ると、あの防衛庁前の道路では、今は消えてしまった旧陸軍大学の講堂で東京裁判が開かれ、誰だかは判りませんが、巣鴨拘置所から通うバスの窓越しに裁かれる側の人の幾人かを見ました。
西門の前の道路はそこだけが巾が広いのですが、尾張藩邸の馬場だったそうです。
by 村尾鐵男 (2010-09-25 17:56) 

袋田の住職

伊勢をお参りし、鳥羽から伊良湖岬にフェリーで渡るとき神島をみました。
まさに神の島ですね。

by 袋田の住職 (2010-09-26 08:06) 

ぼくあずさ

村尾さん 三島由紀夫が生き返ったら、民主政権下の日本の現状をどんな言葉で警鐘を鳴らしたでしょうか。

袋田の御住職さま
コメントありがとうございました。
by ぼくあずさ (2010-11-25 19:40) 

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