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中国史唯一の女帝武則天 -2 [稲門機械屋倶楽部]

                 2010-09-11 WME36 村尾鐵男

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武即天の生立ち                                                               武則天の生年は確かではありませんが、623年頃に生まれ、没年は705年ですから、武即天が生きた時代を日本の歴史へ投影すると、大和時代の後期になり、次のような出来事がありました

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604  聖徳太子が十七条憲法を発布

607  小野妹子が隋へ向かう

630年 遣唐使が始まる

645年 大化改新

663年 白村江の戦い

672年 壬申の乱と天武天皇の即位

701年 大宝律令の制定

710年 奈良へ遷都

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後の女帝武即天は、父親の名は武、母親の名は楊ですが、その夫婦の次女として生まれ、照と名付けられました。父親の職業が何であったのか、私なりに調べましたが、よく判りません。又、夫婦の姓が違うのは中国人の世界ではよくあることで不思議ではありません。中国の場合、台湾も同じですが、女性が嫁いだ後、一年か二年の猶予期間があって、その間に三つの方法を選択します。一つは嫁ぐ前の姓のままでいること。二つ目は夫の姓の下に自分の姓を並べるのですが、この場合ですと、武楊となります。三つ目は夫の姓を名乗ることです。

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父親の職業は不詳ですが、経済的には恵まれていたようで、生後間もない武照を高名な道士に占わせたところ、武照の骨相が際立って優れており、天に昇る運命を授けられていると予言しました。さらに幼児ながらも、大変な美貌に恵まれてもいたと伝えられます。

父親はこの予言に勇気付けられたのか、武照に、当時としては望む限りの最大限の教育を施して、照の名を娥娘(ガジョウ: Wo-niang)と変えました。「娥」の文字は美しい女性を意味しますが、今ならこの文字を子供に付けると親バカの最たるものとなります。

しかし、武娥娘が八歳のときに父親が死亡し、変わって異母兄弟姉妹から恨まれ虐待されることになるのですが、美貌のみならず、身体的にも眼を惹く利点を活かし、且つ忍耐強さもあって、突然の逆境を乗り越えたようです。

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どの書で読んだのか思い出せませんが、長い黒髪、白磁の肌、人を惹きつける微笑と大きな胸、加えて利発さに於いて群を抜いていました。中国の女性は「白磁の肌」と形容されるのが最大の喜びであり、自慢でもあります。

(3)に続く


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